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第一章 正しい洗礼第二章 洗足式第三章 聖霊のバプテスマ第四章 真の救い第五章 死者の救い第六章 真の神
第七章 神の御名について第八章 聖餐式第九章 安息日第十章 聖霊の働きと権威第十一章 神の教会第十二章 ヨハネの黙示録


主イエスの教え 聖霊の働き その1 聖霊の働き その2
聖霊の働き その3 聖霊の働き その4 聖霊の働き その5
聖霊の働きと権威
主イエスの教え

(ヨハネ伝第20章21節)イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
(22節)そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。(23節)あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。


(マタイ伝第12章30節)わたしの味方でない者は、わたしに反対する者であり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
(31節)だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
(32節)また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でもゆるされることはない。

罪を許す権威を与えられた

(使徒行伝第1章4節)「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。(5節)すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。
(6節)さて、弟子達が一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。


(注)(ヨハネ伝第20章21節)イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。(22節)そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。(23節)あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

(7節)彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。(8節)ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(9節)こう言い終わると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。

(10節)イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて、(11節)言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。

(ルカ伝24章50節)それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。(51節)祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕

(所見)
第10章聖霊の働きでは、聖書をお持ちでない方の為に、『日本聖書協会発行の口語訳聖書』を引用して、神の国の福音を宣ベ伝えて、主イエス・キリストの救いに導びきたい。

また、「水と霊」の救いを受けた、兄弟姉妹に対しては、「使徒行伝」の教えに従って、使徒たちが如何にして、聖霊に用いられたか、また、聖霊はどの様に働いたのかを聖書を引用して立証する。

聖霊の働きには、人知を超えた、色々と不思議な事が起こる。まるで、神の国の中にいる様な心地である。

主イエスは言われた、(ルカ伝第17章21節)神の国はじつにあなたがたのただ中にあるのだ。
(ヨハネ伝第18章36節)わたしの国はこの世のものではない。

聖霊に導きがある時は、しるしや不思議なことが起り、聖霊の働きがある。また、聖霊に満たされた時は、聖霊は権威をもって語り、即座に奇跡となって現われる。
参考に、使徒行伝の歴史を、何回かに区分して、筆者の伝道体験、国内と海外とに分けて書き沿えた。

この時から聖霊の働きが始まる

聖霊の働き その1

聖霊の働きは、使徒時代も、今も同じである。

(使徒行伝第1章1節)テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行ない、また教えはじめてから、(2節)お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。

(3節)イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。(4節)そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。(5節)すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。

(6節)さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。(7節)彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。(8節)ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

(所見)主イエスの預言通り、今や、我々は、使徒行伝を受け継いで、その教えに従って、真の福音を宣べ伝えているのである。また、イエス・キリストの御名によるバプテスマ(正しい洗礼)を授ける使命をも受け継いでいる。
我等「水と霊」の救を受けた者は、地の果の証人でもある。

(マタイ伝第28章18節)イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。(19節)それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名(その名はイエス・キリスト)によって、彼らにバプテスマを施し、(20節)あなたがたに(使徒たちに)命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

(マルコ伝第16章20節)弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言葉に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。

(マタイ伝第12章30節)わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
(31節)だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。

(32節)また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

(所見)
聖霊は、絶対に汚してはならない。また、聖霊に対して言い逆らうことも、許される事はない。聖霊を憂いさせてはならない。聖霊は助け主として父なる神から送られている、聖霊はすべてのことを教えてくれる。思い出させてくれる。

(コリント前書第6章3節)あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。

また、(ヘブル書第1章14節)御使たちはすべて仕える霊であって、救いを受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。

(注)その聖霊を受けている私達は、天使も裁く権威があるのです。時には天使が来て仕えている事があることを、知るべきである。わたしたちは、その聖霊を持っている、神の実子なのである。

(ヨハネ伝第20章21節)イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。(22節)そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。(23節)あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

(使徒行伝第1章8節)聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう」。

(注)私達は、主イエスの証人でもある。証人は証言をしなければならない。わたしたちは聖霊を受けて、聖霊によって、主イエスから、使わされている者である。

(ヨハネ伝第20章21節)イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。

(使徒行伝第1章12節)それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。(13節)彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。(14節)彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。

(15節)そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていたが、ペテロはこれらの兄弟たちの中に立って言った、(16節)「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。(17節)彼はわたしたちの仲間に加えられ、この務めを授かっていた者であった。

(18節)(彼は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。
(19節)そして、この事はエルサレムの全住民に知れわたり、そこで、この地所が彼らの国語でアケルダマと呼ばれるようになった。「血の地所」との意である。)

(20節)詩篇に、

『その屋敷は荒れ果てよ、そこにはひとりも住む者がいなくなれ』

と書いてあり、また

『その職は、ほかの者に取らせよ』

とあるとおりである。

(21節)そういうわけで、主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、(22節)すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」。

(23節)そこで一同は、バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフとマッテヤとのふたりを立て、(24節)祈って言った、「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちどちらを選んで、(25節)ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。
(26節)それから、ふたりのためにくじを引いたところ、マッテヤに当たったので、この人が十一人の使徒たちに加えられることになった。

(体験記:沖縄-1を参照)
聖霊の働き その2

(使徒行伝第2章1節)五旬節の日(ユダヤ人の収穫を祝う祭り)がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、(2節)突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。(3節)また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。(4節)すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

(5節)さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、(6節)この物音に大勢の人が集まってきて、彼らの生まれ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。(7節)そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。(8節)それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。

(9節)わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、(10節)フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、(11節)ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。(12節)みんなの者は驚き惑って、互いに言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。(13節)しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。

(14節)そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。
「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。(15節)今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。(16節)そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、

(17節)『神がこう仰せになる。終わりの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。
そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。
(18節)その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。
(19節)また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、
すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。
(20節)主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変わるであろう。
(21節)そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。

(22節)イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。
(23節)このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。
(24節)神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。
イエスが死に支配されているはずはなかったからである。(25節)ダビデはイエスについてこう言っている、

『わたしは常に目の前に主を見た。主は、
わたしが動かされないため、
わたしの右にいて下さるからである。
(26節)それゆえ、わたしの心は楽しみ、
わたしの舌はよろこび歌った。
わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。
(27節)あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、
あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。
(28節)あなたは、いのちの道をわたしに示し、
み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう』。

(29節)兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことがある。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。
(30節)彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、(31節)キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。

(32節)このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。(33節)それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。(34節)ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、

『主はわが主に仰せになった、
(35節)あなたの敵をあなたの足台にするまでは、
わたしの右に座していなさい』。

(36節)だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリスト(救い主)としてお立てになったのである」。

(37節)人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。(38節)すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
(39節)この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。(40節)ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲がった時代から救われよ」と言って勧めた。

(注)ここで初めて使徒たちは、聖霊によって、イエス・キリストの御名をとなえて、真のバプテスマ(洗礼)を授けたのである。今の時代でも我等は、この曲がった時代から救われよと言わなければならない。いつの時代でも、世の悪は増えても減る事はない。だから、「水と霊」による全救いの、真の福音は、全世界に宣べ伝えられねばならないのである。

(41節)そこで、彼の勧めの言葉を受け入れた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。(42節)そして一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていた。

(43節)みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行なわれた。

(注)エルサレムの人々は、初めてイエス・キリストの御名による、罪の許しの、バプテスマを受けたのであるが、その人たちの数が、一日で、「三千人」もいたと言うのである。救いに入った後、みんなの者に恐れの念が生じたとあるが、それは、真の福音に伴う、しるしと不思議が、次々に起こって来たからである。
真の教会には、不思議や奇跡は、常道的に伴うのである。神の御業が証しされるためであり、当然、起るべきしるしであった。
たとえば、死人は生きかえり、医学でも解決できない不治の病は癒され、悪霊は追い出され、てんかんは治り、救いに与った者は、みんな明るくなって、別人の様に生まれ変わると言う証である。
家族も喜び、聖霊の働きによって、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々におこなわれて、恐れの念が生じたと証されている。

(体験記:八重山-1を参照)
(体験記:ブラジルサンパウロを参照)
聖霊の働き その3

(使徒行伝第3章1節)さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、(2節)生まれながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。

(3節)彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。(4節)ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。(5節)彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、(6節)ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。

(7節)こう言って彼の右手を取って起こしてやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、(8節)踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。
(9節)民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、(10節)これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起こったことについて、驚き怪しんだ。

(注)この章の1節と2節にある、足の立たない男に対して、ペテロは、わたしたちを見なさいと言って、男の心を自分に注目させた。男は何かもらえるのだと期待して、ふたりに注目していると、ペテロが、「金銀はわたしには無い、わたしにあるものをあげよう」と言った。その時ペテロの心は聖霊に支配され、確信を持って、足の立たない男に、「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言って、彼の右手を取って起こしてやると、足と、くるぶしが、強くなって、踊りあがって立ち、歩き出したのである。
ペテロは、彼が完全に癒される事を、最初から信じていたのである。ペテロは、イエス・キリストの御名を信じる事によって、『どんな事でもできる』と。
(マルコ伝第9章23節)イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。

(11節)彼がなおもペテロとヨハネとにつきまとっているとき、人々は皆ひどく驚いて、「ソロモンの廊(ろう)」と呼ばれる柱廊(ちゅうろう)にいた彼らのところに駆け集まってきた。
(12節)ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜ私たちを見つめているのか。
(13節)アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕(しもべ)イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。
(14節)あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、(15節)いのちの君(きみ)を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを、死人の中から、よみがえらせた。私たちは、その事の証人である。
(16節)そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。

イエスの御名を信ぜよ

(17節)さて、兄弟姉妹たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても、同様であったことは、私に分かっている。(18節)神はあらゆる預言者の口を通して、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。

(19節)だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ち返りなさい。(20節)それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたの為にあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。
(21節)このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかねばならなかった。

(22節)モーセは言った、『主なる神は、私をお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、一人の預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞き従いなさい。(23節)彼に聞き従わない者は、みな民の中から滅ぼし去られるであろう』。

(24節)サムエルをはじめ、そののち続いて語ったほどの預言者はみな、この時のことを予告した。(25節)あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラハムに対して『地上の諸民族は、あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』と仰せられた。

(26節)神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがた一人びとりを、悪から立ち返らせて、祝福に与らせるためなのである」。

(所見)
神は、アブラハムの子孫であるあなたがたを、忘れることなく、地上の諸民族は、あなたの子孫によって、祝福を受けるであろうと言われたのである。
また、神がまず、あなたがたの為に、イエスを、おつかわしになったのは、あなたがた一人びとりを、悪から立ち返らせて、祝福に与らせる為である。聖書には、信仰のある者は、みな、アブラハムの子孫とみなす。と書いてある。神は、約束された事は、決してお忘れになられない。

(体験記:奄美諸島-1を参照)
聖霊の働き その4

(使徒行伝第4章1節)彼らが人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、(2節)彼らが人々に教えを説き、イエス自身に起こった死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、(3節)彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。
(4節)しかし、彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった。

(5節)明くる日、役人、長老、律法学者たちが、エルサレムに招集された。(6節)大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンドル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。(7節)そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。

(8節)その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、(9節)わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、(10節)あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。

(11節)このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。(12節)この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

(13節)人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、(14節)かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。

(参考)聖霊に満たされている時は、知恵と確信とに満ちて、恐れもなく勇気に満ちた状態になる。その態度と言い、また、口から出て来る言葉と言い、真理の御霊(みたま)が語っているので、何人と言えども、つけ込むすきなどがないのである。

(15節)そこで、ふたりに議会から退場するように命じてから、互いに協議をつづけて(16節)言った、「あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。(17節)ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。(18節)そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。

(19節)ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。(20節)わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。

(注)信仰には勇気も必要である。勇気がなければ、イスラエルの議会に引き出された時、反論も立証もできなかった。イエス・キリストを本当に信じていたら、恐れは完全になくなる。
(ヨハネ第1の書第4章18節)愛には恐れがない、完全な愛は恐れをとり除く。と書いてある。

(21節)そこで、彼らはふたりを更におどしたうえ、ゆるしてやった。みんなの者が、この出来事のために、神をあがめていたので、その人々の手前、二人を罰するすべがなかったからである。(22節)そのしるしによっていやされたのは、四十歳あまりの人であった。

(23節)ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した。(24節)一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。(25節)あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕(しもべ)ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、

『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、
もろもろの民は、むなしいことを図り、
(26節)地上の王たちは、立ちかまえ、
支配者たちは、党を組んで、

主とそのキリストに逆らったのか』。

(27節)まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、(28節)み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。

(29節)主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕(しもべ)たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。(30節)そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。(31節)彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

(32節)信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。

(33節)使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。(34節)彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、(35節)使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えたられた。

(36節)クプロ生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)とよばれていたヨセフは、(37節)自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。

(注)当時のユダヤ人社会においては、主イエスの復活を大胆に語るには、実に、命がけのことであった。
「水と霊」によって、生まれ変わった者は、心を一つにし、思いを一つにして、神の国の福音のため、その救いの為には、惜しむ事も無く、財産を売って、使徒たちの足もとに置いたとある。
この救いと、聖霊の働きがどんなにか、大事で、尊いことかを、教えられたのである。人々は、持てる財産を売ってまで、使徒たちに応援して、惜しまなかった。

(体験記:与那国-1を参照)
聖霊の働き その5

(使徒行伝第5章1節)ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、(2節)共謀(きょうぼう)して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。

(3節)そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺(あざむ)き、地所の代金をごまかしたのか。(4節)売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。

(5節)アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。(6節)それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。

(7節)三時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事をしらずに、はいってきた。(8節)そこで、ペテロが彼女にむかって言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか」。彼女は「そうです、その値段です」と答えた。

(9節)ペテロは言った、「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口(かどぐち)にきている。あなたも運び出されるであろう」。

(所見)その日のペテロの心は、アナニヤとサッピラに対して、聖霊による怒りを感じていた。二人が心を合わせて、聖霊を欺き、神を欺いたことに対し、怒りを持って、二人に問い正したのである。
聖霊が怒っている時は、人間の感情とは全く、関係ないのである。わたしにも体験がある。

(体験記:八重山-1を参照)

聖霊の権威においては、アナニヤとサッピラ夫妻を許す事はできなかった。

(10節)すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちがはいってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。(11節)教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。

(12節)そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行なわれた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。(13節)ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。
(14節)しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。(15節)ついには、病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった。

(16節)またエルサレム付近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。

(注)真の福音には、しるしと不思議が伴うのである。それによって、人々の感心が高まり、神もまた、しるしと、奇跡とを現し、様々な不思議な御業を起し、聖霊の働きによって、主イエスの御名が崇められ、多くの人が救いに導かれたのであった。

(17節)そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬(しっと)の念に満たされて立ちあがり、(18節)使徒たちに手をかけて捕らえ、公共の留置場に入れた。(19節)ところが夜、主の使いが獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、(20節)「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏(も)れなく、人々に語りなさい」。
(21節)彼らはこれを聞き、夜明けごろ宮にはいって教えはじめた。

一方では、大祭司とその仲間の者とが、集まってきて、議会とイスラエル人の長老一同とを召集し、使徒たちを引き出してこさせるために、人を獄につかわした。

(22節)そこで、下役どもが行って見ると、使徒たちが獄にいないので、引き返して報告した、(23節)「獄には、しっかりと錠がかけてあり、戸口には、番人が立っていました。ところが開けてみたら、中にはだれもいませんでした」。

(注)神は御使に命じ、使徒たちを、獄から連れ出させた。すべてを御存じである神は、使徒たちを救い出して下さった。
(ロマ書第8章31節)神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。と、書いてある。

(24節)宮守がしらと祭司長たちとは、この報告を聞いて、これは、いったい、どんな事になるのだろうと、あわて惑っていた。(25節)そこへ、ある人がきて知らせた、「行ってごらんなさい。あなたがたが獄に入れたあの人たちが、宮の庭に立って、民衆を教えています」。
(26節)そこで宮守がしらが、下役どもと一緒に出かけて行って、使徒たちを連れてきた。しかし、人々に石で打ち殺されるのを恐れて、手荒なことはせず、(27節)彼らを連れてきて、議会の中に立たせた。すると、大祭司が問うて(28節)言った、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教えを、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」。

(29節)これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。(30節)わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、(31節)そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救い主として、ご自身の右に上げられたのである。(32節)わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。

(33節)これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った。 (34節)ところが国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、(35節)一同にむかって言った、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。(36節)先ごろ、チゥダが起こって、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。

(37節)そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。(38節)そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。(39節)しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、(40節)使徒たちを呼び入れて、むち打ったのち、今後イエスの名によって語ることは相成らぬと言いわたして、ゆるしてやった。

(41節)使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。(42節)そして毎日、宮や家で、イエスがキリスト(救い主)であることを、引きつづき教えたり宣べ伝えたりした。

(所見)(エペソ書第4章3節〜7節)聖霊の一致をまもれ、体は一つ、御霊は一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、父なる神は一つである。

聖書の教えもまた、みな同じである。初代の使徒達と、今の時代も、同じ事が言えるのではないか? 同じ聖霊の働きによって、信仰も体験もみな同じでなければならない。

使徒行伝が教えている真理は、同じ真理の御霊の働きであり、今の時代に於いても、すべてが同じであらねばならないのである。
初代教会の使徒達がどのように、導かれたか、また、聖霊に用いられたかを、学び、悟らなければならないのだ。

(マタイ伝第13章14節)イザヤの言った預言、

『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍(にぶ)くなり、
その耳は聞こえにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒される事がないためである』。
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