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第一章 正しい洗礼第二章 洗足式第三章 聖霊のバプテスマ第四章 真の救い第五章 死者の救い第六章 真の神
第七章 神の御名について第八章 聖餐式第九章 安息日第十章 聖霊の働きと権威第十一章 神の教会第十二章 ヨハネの黙示録

1 神は唯一である 2 新約聖書の教え 3 旧約聖書の教え 4 神 の 奥 義
5 イエスは神の本質の像である 6 聖    霊   7 イエスはエホバの現れである むすび


真の神は主イエス・キリストである

1 神は唯一である

(a) 聖書には、「神は唯一なり」と教えている。全能の神は、「指導者モーゼ」に命じられた。

(出エジプト記第20章3節)あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
(4節)あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にある物の、どんな形をも造ってはならない。
(5節)それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎む者には、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、(6節)わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、恵みを施して、千代に至るであろう。


以上のように、真の神は人間の手で造った如何なる形のものをも、神として造る事も、拝む事も、それに仕える事も許されないと警告しているのである。

(申命記第27章15節)『工人(こうじん)の手の作である刻んだ像、または鋳(い)た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。とある。
(同章29章17節〜18節)またあなたがたは木や石や銀や金で造った憎むべき物と偶像とが、彼らのうちにあるのを見た。(18節)それゆえ、あなたがたのうちに、きょう、その心にわれわれの神、主を離れてそれらの国民の神々に行って仕える男や女、氏族や部族があってはならない。と神は命じたのである。

主イエス・キリストが
(マタイ伝第13章24節〜43節)に、譬(たとえ)をもって教えられた様に、正に、今日の世界を予言して警告された。
(マタイ伝第13章24節)「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。(25節)人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。(26節)芽が生え出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。(27節)僕(しもべ)たちが来て、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。(28節)主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。(29節)彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。(30節)収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦のほうは集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。
(中略)
(34節)イエスはこれらのことをすべて、譬(たとえ)で群集に語られた。譬(たとえ)によらないでは何事も彼らに語られなかった。(35節)これは預言者によって言われたことが、成就(じょうじゅ)するためである、
「わたしは口を開いて譬えを語り、
世の初めから隠されていることを語り出そう」。
と、世の始めから隠されていた事も有る事を証されたのである。

(36節)それからイエスは、郡衆をあとに残して家にはいられた。すると弟子達は、みもとにきて言った、「畑の毒麦の譬(たとえ)を説明してください」。(37節)イエスは答えて言われた、「良い種をまく者は、人の子である。(人の子とは主イエスの事である。)(38節)畑は世界である。良い種と言うのは、御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。(39節)それをまいた敵は悪魔である。収獲とは世界の終わりのことで、刈る者は御使いたちである。
(40節)だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。(41節)人の子はその使いたちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、(42節)炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。(43節)そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。


以上の様に、全世界に対して、予言をもってこのように、警告されたのである。

ここで、使用している聖書は、1955年改訳の、日本聖書協会の旧新約聖書口語訳を使用している。聖書をお持ちでない方、また、未だ聖書の教えをご存知でない方も、共に聖書の真理を学び、「水と霊」との全たき救いに与かられる事を、お勧めします。「水と霊」との救いは、永遠の全き救いであり、
(ヨハネの黙示禄第21章)の新天新地に入る関門である。
2  新約聖書の教え
(a) (使徒行伝第17章24節〜34節)この世界と、その中にある万物(ばんぶつ)とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
と記されている。ちなみに、世界には、何百年もかけて造った、カトリックの教会堂や、イスラム教の神殿モスク、また、アジア及び、日本においては、神社、仏閣など、実に神がおられるかの如く、威厳を示しているのであるが、神は人の手で造った宮などには、住まないと、書いてある。

(25節)また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕(つか)えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物(ばんぶつ)とを与え、(26節)また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。(27節)こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いださせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。(28節)われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、
 『われわれも、確かにその子孫である』。
(29節)このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を人間の技巧(ぎこう)や空想で金や銀や石などに彫(ほり)付けたものと同じと、見なすべきではない。

(30節)神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。(31節)神は、義をもってこの世界を裁くためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである。


また、
(マルコ伝第12章28節)ひとりの律法学者がきて、彼らが互いに論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。(29節)イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。(30節)心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。(31節)第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人(となりびと)を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。(32節)そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。」

ふだんは、 イエスの言葉の揚げ足をとらえて、攻撃し迫害している、律法学者でさえ、「神は唯ひとり」である事をこの様に認めたのである。


(b) (ヨハネ伝第5章44節)には、互いに誉れを受けながら、ただひとりの神からの誉れを求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。

(ヨハネ伝第17章3節)永遠の命とは、唯一の、真の神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。


(c) 
(コリント前書第8章4節)さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。

(d) 
(ロマ書第3章30節)まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
(ロマ書第16章27節)すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アァメン。


(e) 
(テモテ前書第2章5節)神は唯一であり、神と人との間の仲保者(ちゅうほしゃ)もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。

(f) 
(ガラテヤ書第3章20節)仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。

(g) 
(ヨハネの黙示禄第1章8節)今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。
(ヨハネの黙示禄第22章12節)「見よ、わたしはすぐに来る、報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。(13節)わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。


(h) 
(ヨハネの黙示禄第22章18節)この書の予言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。(19節)また、もしこの予言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。

以上の様に、「唯一の神」について、新約聖書はこのように証言し、教えているのである。
3  旧約聖書の教え
(a) (申命記第6章4節)イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。

(b) 全能の神は、指導者モーセに命じられた。

(出エジプト記第20章3節)あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない
(4節)あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。(5節)それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、(6節)わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

この戒めは永遠の誡めであり、今も守らなければならない事である。

(c) 
(イザヤ書第37章16節)「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍(ばんぐん)の主よ、地のすべての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。
(イザヤ書第44章6節)
主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、
「わたしは初めであり、わたしは終わりである。
 わたしのほかに神はない」。


(d)
 (イザヤ書第44章8節)恐れてはならない、またおののいてはならない。
 わたしはこの事を昔から、
 あなたがたに聞かせなかったか、
 また告げなかったか。
 あなたがたはわが証人である。
 
わたしのほかに神があるか。
 わたしのほかに岩はない。
 わたしはそのあることを知らない」。

(イザヤ書第45章5節)わたしは主である。
 
わたしのほかに神はない、ひとりもない。
 あなたがわたしを知らなくても、
 わたしはあなたを強くする。
(イザヤ書第45章22節地の果てなるもろもろの人よ、
 わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。
 わたしは神であって、
「ほかに神はないからだ」。


以上の通り、旧新約聖書を参照して、「神が唯一」である事が明白となった事は否定出来ない。
この様に、旧新約聖書の視点から、現在の世界を見る時、国々の宗教社会と、その国民生活の実態は、けして、天の恵みや、祝福を受けているとは言えないのである。
4  神 の 奥 義
(a) 「神の奥義」 とは、(テモテ前書第3章16節)に啓示されてある通リ、神が、人となられた事である。
(テモテ前書第3章16節)確かに偉大なのは、この信心の奥義である、
 「キリストは肉において現れ、(肉とは肉体を持つ人間のこと)
 霊において義とせられ、
 御使いたちに見られ、
 諸国民の間に伝えられ、
 世界の中で信じられ、
 栄光のうちに天にあげられた」。

のである。

(b) 
(ヨハネ伝第1章1節)初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。
(14節)そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。

とあり、この御言葉の奥義は、神が歴史的人物となって、この世に生れて来て、現実に、イスラエル周辺に住み、一人の社会人として納税を行われた事実でも証明されている。

(c)
 また、預言者イザヤは、永遠の父なる神が、人の子として生れる事を、予言して言った。
(イザヤ書第9章6節)ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、
その名は、「霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。

この預言から、740年後と言われる、(マタイ伝第1章21節)に、彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
と、「唯一の大能の神が」、「永遠の父」、として生まれる事が予言され、それが、「イエス」の誕生であった事は周知の通りである。

(d) 
(ユダ書25節)すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、わたしたちの主イエス・キリストによって、世々の初めにも、今も、また、世々限りなく、あるように、アーメン。

(e) 
(イザヤ書第7章14節)それゆえ、主はみずから一つのしるしを、あなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。
インマヌエルは、次のように実現した。
(f) (マタイ伝第1章23節)「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。
これは、「神われらと共にいます」という意味である。

と天使が証言しているのである。

(g) 
(ヨハネ伝第14章7節〜11節)預言者イザヤの予言どおり、永遠の父である、主イエスは、ピリポの疑問に対して、
(9節)わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。(10節)わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。

(h) 
(テトス書第2章13節)祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。
イエスは真の神である
(a) (ヨハネ第一の書第5章20節)さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実の神であり、永遠のいのちである。

(b) 
(ロマ書第9章5節)また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アーメン。
キリストは万物の上にあり、永遠に讃むべき神である。
(c) (ヨハネ伝第20章24節〜29節)十二弟子の一人で、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
(25節)ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
(26節)八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。

(d) 戸はみな閉ざされていたが、イエスが入ってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
(27節)それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(28節)トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。(29節)イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
と、さとされたのであった。初代教会の使徒達や信者達はみな、主イエス・キリストを神と信じて、礼拝したのである。
5  イエスは神の本質の像である
(a) (ヘブル書第1章3節)御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。

(b) 
(ピリピ書第2章6節〜11節)キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、(7節)かえって、おのれをむなしうして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、(8節)おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(9節)それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。(10節)それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、(11節)また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

(c) 
(コロサイ書第1章19節)神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ
とあり、
(同第2章9節)キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており

とあって、神は「凡て」と言い、また、「いっさいの」と言われる故に、神、すなわち、イエス・キリスト、と言い得るのである。

(d) 
(ピリピ書第2章6節)「キリストは、神のかたちであられたが、」
とある通りに、イエスは神の本質の像であるのです。

(e) 
(コリント前書第8章6節)わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一のイエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。

(f) 
(ロマ書第6章23節)罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠の命である。
神のことに関しては、主とか、父とか、子とか、また、聖霊などと、いろいろな代名詞が使われている。神観に関する考え方が問題である。
特に父とか、子とか、と言われている言葉で真理を不可解にしているが、救いに関しては、神ご自身の御業であって、「イエス」以外の言葉は全部、職分または、地位に関する問題である事が分かる。救いの問題に関しては、人類の始祖アダムが罪を犯した時、父なる神は自ら彼を救う事を宣言されたのであるが、人類を贖(あがな)うためには、罪の払う価は死である、とあり、誰かが死の価を払ってくれなければ、人類の救いはありえないのである。
(g) (ヘブル書第9章22節)こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。

(h) 旧約聖書の律法によれば、人類の罪を赦し、罪を潔めるには血を流さなければならない。しかし、神は霊であるから、血を流すことができない。故に、血を流す事の出来る肉体を備えた人となるため、霊なる神は、肉体を取って人となられたのである。

(マタイ伝第1章21節)彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」
その時から、イエスは「神の子」また、「人の子」と呼ばれ、また、神ご自身が、人となられたが故に、「神の独り子」と言われているのである。

(i) 
主イエスは、万民の救い主として、この世に来られたので、「神から遣わされた者」また、「キリスト即ち救い主」と記されているのである。また、御昇天後は救いの業を全うされたので、「大牧者又、大祭司長」となられたのである。

(j) これはみな、「職分」また、「地位」としての問題であって、(ヨハネ黙示禄第21章)の「新天新地」の永遠の全たき救いに入り、やがて世改まり、罪なく、病なく、苦しみも、悲しみもなく、サタンから来る一切の禍いがなくなり、救主の必要なき世界となった時に、主イエス・キリストは、一切の職分とあらゆる地位とを脱ぎ捨て、父なる神という、全能の神の本当の姿に還られるのである。
(コリント前書第15章24節)それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのでる。
(25節)なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時まで、支配を続けることになっているからである。(26節)最後の敵として滅ぼされるのが、死である。(27節)「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。

ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明白である。(28節)そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。
(k) 故に、主イエスは弟子達に言われた、(ヨハネ伝第14章6節)「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
(ヨハネ伝第10章30節)わたしと父とは一つである。


(l) 
(ヨハネ伝第14章7節)もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。(8節)ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。(9節)イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。

(m) 
どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。(10節)わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。(11節)わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれを信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
その業が証をしているからである。

(n) 
(イザヤ書第9章6節)ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、
その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。


(o) 
(ヨハネ伝第10章30節)わたしと父とは一つである。

(p) 
(ヨハネ伝第14章5節)トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。
(6節)イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(7節)もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、また、「すでに父を見たのである」。


(q)
 (8節)ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下さればわたしたちは満足します」。(9節)イエスは彼にいわれた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
(10節)「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、「御業を」なさっているのである。


(r) (ヨハネ伝第16章25節)わたしはこれらのことを比喩(ひゆ)で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。
父なる神のことをあからさまに話されると証言されたように、ご自身が父である事はすでに明らかにされたのである。
6  聖    霊  
(a) 新約聖書(ヨハネ伝第4章24節)に、神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」
また、(ヨハネ伝第14章26節)「助け主、すなわち、父がわたしの名によって遣わされる聖霊は、」 とあるので、聖霊と、主イエス・キリストとの関係を見る必要がある。主は御弟子達に、聖霊降臨を約束された。

(b) (ヨハネ伝第14章20節)その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
と言われたのである。主イエスは言われた、わたしがあなたがたに居る事が、わかるであろう。と言われたことは、「聖霊」を受けると言う事が、どうゆうことか、御昇天後の主が、御霊となって、わたしたちの中に住むと言う事を証されたのである。

(c) 
(ヨハネ伝第14章18節)わたしは、あなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。(19節)もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。
如何にして主イエスは、帰って来られるのか?御霊となって来られるのである。

(同23節)
また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。

とあって、まことに、主と聖霊とは一つであることを証されたのである。

(d) 主はまた言われた、(マタイ伝第18章20節)
「ふたり、または3人が」、わたしの名によって、集まっている所には、わたしもその中に居るのである。」とあるのは、御昇天後の主が天に居られるだけではなく、御霊となって、集まりの中に御臨在されるとの事である。

故に使徒パウロは、聖霊を受ける事を、奥義として、(コロサイ書第1章27節)この奥義は、あなたがたの
うちにいますキリストである。と証したのである。また、「主は霊である。」(コリント後書第3章17節)とあり、真にイエスは御霊である。故に、御霊との交わりは、即ち主との交わりであることを悟るべきである。
7  イエスはエホバの現れである
(a) 文語訳の旧約聖書には、真の神は、いつも、「エホバ」または「主エホバ」として現わされている。ちなみに、日本聖書協会発行の口語訳聖書では、旧約のエホバは、すべて「主」と訳されていて、新約聖書の「主イエス」である事は明確にしている。
聖書を読むと、旧約聖書から新約聖書に引用された聖句は、「エホバ」と言う箇所は、全部「主」となっており、例えば旧約聖書に「エホバの名」とあるところは、新約聖書では、イエスを示す「主の名」となっているように、「イエスはエホバ」の現れであると言う事は間違いない事実である。


むすび
(a) 神御自身が「人となって」現われた時、見ても認めず、聞いても悟らず、遂に十字架に張り付けて、殺してしまった。「やみの中から光が照り出でよ」(コリント後書第4章6節)と仰せになった神は、キリストによってその奥義を、明らかにしてくださったのである。

(b) 
(ヨハネ伝第15章7節)わたしの言葉が、あなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
(ヨハネ伝第6章63節)人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
(ヨハネ伝第1章1節)言(ことば)は神であった。
(2節)この言(ことば)は初めに神と共にあった。(3節)すべてのものは、これによってできた。
「仰ぎ見ればキリスト」の他、誰もいなかった。教会の首(かしら)である主御自身が、(ヘブル書第12章2節)信仰の導き手であり、その完成者である
イエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。


以上、この様に聖書は証しているのである。聖書に帰りましょう。

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