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第一章 正しい洗礼第二章 洗足式第三章 聖霊のバプテスマ第四章 真の救い第五章 死者の救い第六章 真の神
第七章 神の御名について第八章 聖餐式第九章 安息日第十章 聖霊の働きと権威第十一章 神の教会第十二章 ヨハネの黙示録

第七章 洗足式 

1 洗足式は主の命令である 2 洗足式の意義

洗足式を行う事

1 洗足式は主の命令である
 洗足式は、主の御命令である。
以下の御言葉を参照。
(ヨハネ伝第13章1節)過越の祭りの前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
(2節)夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、(3節)イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、(4節)夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、(5節)それから水をたらいに入れて、弟子達の足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
(6節)
こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
(7節)イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
(8節)ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何の係わりもなくなる」。
(9節)シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
(10節)イエスは彼に言われた、「すでに体を洗った者は、足のほかは洗う必要が無い。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうではない」。
(11節)イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。
(12節)こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、再び席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
(13節)あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとうりである。
(14節)
しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互いに足を洗い合うべきである。
(15節)わたしがあなたがたにしたとうりに、あなたがたもするように、わたしは手本をしめしたのだ。
(16節)よくよくあなたがたに言っておく。僕(しもべ)はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
(17節)
もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。この事を分かっていて、それを行うなら幸である。」と、主は、洗足を行う者は幸いである事を強調して、「祝福を」約束されたのである。
(18節)あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人達を知っている。しかし、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってそのかかとをあげた」とある聖書は成就されなければならない。
(19節)
そのことがまだ起こらない今のうちに、あなたがたに言っておく。いよいよ事が起こった時、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるためである。
(20節)よくよくあなたがたに言っておく。わたしがつかわす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをつかわされたかたを、うけいれるのである。


(注)イエス様は、この20節の御言葉の中で、よくよくあなたがたに言っておく、とよくよくの事だと言われるこの奥義を悟るべきである。
主イエスが使わす者を受け入れる者は、イエス様を遣わされた方、即ち、父と、子の神を、同時に受け入れている事を、悟れと教えられたのである。

2 洗足式の意義
 洗足式に関する聖句を読むと、そこに二つの意義を啓示していることが分かる。
(1)  救いに関連して。
(ヨハネ伝第13章6節)こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼は、イエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
(7節)
イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは、今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるであろう」。
(8節)ペテロはイエスに言った、「わたしの足は決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何の係わりもなくなる」。
(9節)
シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
(10節)イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
(11節)イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。

(12節)こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、再び席にもどって、彼らに言われた。「わたしがあなたがたにした事がわかるか。

(13節)
あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
と認められたのである。


(2) 歩みの問題に就いて。
(ヨハネ伝第13章17節) もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。

救いに関連して主がたらいに水をいれて、弟子達の足を順次に洗い初められた。シモン・ペテロに至った時、ペテロは、
(ヨハネ伝第13章6節)「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
また、
(8節)「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。

この一句に、救いに関する深い奥義がかくされているのである。救いに関係する事とは、「救い主である、イエス・キリストとの関係が救いを左右する。」
洗足は、救いを確認し、悪魔サタンとの絶縁を宣言するものであった。ペテロが、わたしと何の係わりも無くなる、と聞かされて驚き、「主よ、では足だけではなく、手も頭も。」と願った時に、

(10節)
イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。」
と答えられた。

既に浴したる者とは、
既に洗礼を受けた者は、新しく生まれ変わり、御血によって洗われ罪咎(つみとが)を赦され、全身を潔められた者と言う意味である。
信仰とは、その事を信じる事である。
恩寵(おんちょう)とは、ハレルヤと主を讃美する時、聖霊が降って来るその事である。神から自分に与えられる一切の事は、恩寵である。
水と霊のバプテスマを受けて、全たき救いに与かったのに、何故、足を洗う必要があるのかと言う人もあろう。

(ヨハネ伝第13章7節)「わたしのしている事は今あなたには分からないが、後で分かるようになるだろう」。
「わたしが、 もし、あなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと、なんの係わりもなくなる」。(洗礼を受けた者は足だけ洗う必要がある)、全身がきれいなのだから、と言われた。
其の真意を悟らずとも、これは一大事と、是非洗足をしてもらう必要がある。

そもそもクリスチャンとは何か?
「水と霊のバプテスマ」を受けて、闇より光に、サタンの権威より神に立ち返らされた者であり、
(使徒行伝第26章18節)それは、彼らの目を開き、彼らを闇から光りへ、悪魔の支配から神の御許へ帰らせ、また、彼らが罪の許しを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わる為である』。

この曲がった時代から救い出された者である。其の前身を言えば、サタンの支配下に有った者である。

洗足式とは、サタンの世界にサヨナラし、ヤクザの世界から堅気の世界に足を洗うと言うような事に似ている。悪の世界から足を洗う式典である。この式典に与かる時に、悪魔サタンは去り、人生の過去の歩みを洗い清められて、神の祝福は来るのである。
故に洗足式は行うべきであって、洗礼式直後に行う事が最も望ましい。


(3) 信仰の歩みに就いて
以下、「互いに足を洗うべき」事に就いて命じられたのは、「水と霊」のバプテスマを受けて、全き救いに与かり洗足を行って、悪と絶縁して、聖(きよめ)られた者が神の教会に於ける、歩みについて教えられたのである。
教会の歩みと言えば、主の教えに従って歩む事である。

(ヨハネ伝第14章12節)よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父の身元に行くからである。

人の足を洗うと言う事は奴隷(どれい)のする事であって、人となり、僕(しもべ)のかたちを取られた。そして実生活においても、
(マタイ伝第20章28節)それは、人の子がきたのも、仕(つか)えられるためではなく、仕える為であり、また多くの人の贖(あがな)いとして、自分の命を与える為であるのと、ちょうど同じである。

と言われたように、実に主は謙遜の限りを尽くし、柔和にして自分を犠牲にして、十字架の死にいたるまで従われたのである。これは即ち、この世に現れた、神の像であった。
これがクリスチャンの歩むべき道程(みちのり)である。傲慢(ごうまん)と嫉妬(しっと)自己中心はサタンより出たものであり、これは教会を汚すものである。
故にクリスチャンは、教会の神聖を保ち、これを汚(けが)さない為に、洗足式を行い、悪魔らいのものを排除して、キリストの姿に成長しなければならないのである。

(4) 幸なる者
真のクリスチャンは、現在は霊に於いて王であり、祭司であり、神の子である。
主のご再臨以後は、主の如く、千年の間、地上では王様であり、また、キリストの花嫁としての身分である。
これらの事を知って、主の様に、謙遜であり、柔和になって、主のくびきを負うて行く事、また、人の足を洗う生涯はどんなに幸いであるか。実に幸を味わう生涯である。
クリスチャンの幸なる生涯は、洗足式の生涯でありたい。

(5) 洗足式での体験
洗足式の様子(アルバム)
1、 主イエスはペテロに、私がしている事は今はわからないが、後に分かる様になると言われた。

2、 最初に洗足式が行なわれたのは、沖縄の北谷村(ちゃたんそん)謝苅(じゃーがる)の教会で、渡慶次(とけし)道雄(みちお)牧師が、洗礼式の後に、「タライ」に水を入れて、教会で洗足式を行なった時である。
主イエスが傍らに立たれた事を私が目撃して、大変厳かに感じ、恐れおののいた事を覚えている。

3、 第2回目は、私が、石垣市の宮良川で、洗礼式を行った時である。
当日は、90名の洗礼式が行なわれたが、その時も、川は血の川に変わり、主イエスは洗礼式が終るまで、水の上に立たれた事を全会衆が、目撃していたのであるが、洗足式の時にも最初から、イエス様が傍らに立たれて、御臨在のもとに、90名の洗足式を行った。私も信者達も、主イエスを目撃して、その厳かさに、泣きながらの洗足式を行った事を憶えている。
(6) 死者の身代わりの洗足式
4、 第3回目は、或る先祖の身代わり洗礼を行った時でした。
黄泉に在る霊に対して、バプテスマを授けると同時に、死者はその罪が赦されて、天に昇って行く姿を目撃した事である。これらの事は昨日の様に今もあざやかに覚えている。
そして、洗足式の時にも、主イエスが傍らに立たれて、身代わりの洗足を行っている間、生前この先祖が歩んだ歩みを、走馬灯の様に見せられた事である。
イエス様が後(のち)悟らんと言われた御言葉の中には、色々な深い意味があった事を、教えられたことであった。
(7) 信仰生活の歩みの中で
第4回目は、石垣市で、水と霊の救いに与った後に、ある婦人が、異言のお祈りが出来なくなった、そのために、息がつまりそうで苦しい、お祈りして下さいと、教会にかけこんできた時である。
オリーブ油を注いでお祈りをしていると、「タライ」が見せられた。
「タライ」の真ん中に、十字架に架けられたイエス様の体が現われ、タライの中に御血が、滴(したた)り落ちて、タライの中の水は真っ赤な『血に変わり』、洗足式を行う様に主が示されたのである。
お示しに従って「タライ」に水を入れて洗足すると、婦人は大きな息をして楽になったと言って、一緒にお祈りすると、再び異言が与えられて、平安に満たされて、感謝して、帰って行ったのである。
(8) 洗足式をすると悪霊が出て行く
(イ)洗足式をすると、悪霊が出て行った。
(ロ)信仰生活の歩みが汚された時、清められて再び信仰の活力が与えられた。
(ハ)お祈りしても中々癒されない病気が、洗足式を行った直後に、癒された事であった。

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