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第一章 正しい洗礼第二章 洗足式第三章 聖霊のバプテスマ第四章 真の救い第五章 死者の救い第六章 真の神
第七章 神の御名について第八章 聖餐式第九章 安息日第十章 聖霊の働きと権威第十一章 神の教会第十二章 ヨハネの黙示録

1 異  言 2 受霊の徴 3 使徒時代においては 4 異言が伴った記事の有る箇所
5 聖霊によって語らしめる異言 6 異言の賜物による異言の説教 7 聖霊の権威と宣教活動 8 聖霊は父なる神の約束である
9 聖霊は真の信仰の条件である 10 聖霊は贖いの日の保証 11 聖霊は神の国をつぐ保証 12 聖霊は神の子となる身分を与える
13 聖霊は永遠の命である 14 御霊は真理の教師である 15 御霊は助け主である 16 御霊は九の霊の賜物の働きをする
17 教会の組織と聖霊の働き 18 教会はキリストの花嫁である 19 聖霊は最後の革命的救いである 20 教会に関する、聖書の言語
 
人類は初めて聖霊のバプテスマが与えられるのである

(使徒行伝第1章5節)ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう。
(6節)さて、弟子達が一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。
(7節)彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない」。
(8節)「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

(使徒行伝第2章1節)五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、(2節)突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。(3節)また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
(4節)すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
(5節)さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、(6節)この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生まれ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。

(7節)そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。(8節)それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったいどうしたことか。

(9節)わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、(10節)フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、(11節)ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか。
(12節)みんなの者は驚き惑って、互いに言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。

(解説)
その日、エルサレムには、上記のとおり、17カ国の外国人が滞在していたが、朝の9時ころ、突然、風が吹いてきたような音が天から起ってきて、聖霊が120名の上に降ったのである。

そして、120名の信者や使徒達が聖霊に満たされて、だれもが分かる言葉で語らされたために、17カ国の外国人達が驚いたのである。
このように、17か国の人々が生まれた国の言葉で「御霊」が語らせるままに、他国の言葉で語ることを皆の者が聞いて、神の大きな働きを、述べるのを聞いたと言った。

この人たちは、ガリラヤ人たちが、ならったことも無い他国の言葉を、即座に語りだしたので、17カ国の人々が、驚き、惑って言った。

(使徒行伝第2章13節)しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」。と言った。
(14節)そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。
「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。

(15節)今は朝の9時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。(16節)そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。

すなわち、(17節)『神がこう仰せになる。終わりの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。(18節)その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そしてかれらも預言をするであろう。

(19節)また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、みせるであろう。
(20節)主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。(21節)そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』

(22節)イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。
あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行なわれた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。

(23節)このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。
(24節)神はこのイエスを死のくるしみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。

(36節)だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。(37節)人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらいいのでしょうか」と言った。

(38節)すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物をうけるであろう。

(39節)この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、あたえられているものである」。(40節)ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲がった時代から救われよ」と言って勧めた。

(41節)そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
(42節)そして一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていた。

(43節)みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行なわれた。


これらの事は、ヨエルの預言にあるように、天から聖霊が降った日に、起った歴史的出来事であると聖書は教えている。

(ヨハネ伝第20章22節)で主イエスが、彼らに息を吹きかけて、

「聖霊を受けよ。(23節)あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

と言われてから、(使徒行伝第1章5節)で、

「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によってバプテスマを授けられるであろう。
(8節)聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力をうけて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
といわれた。

その後、使徒時代では、使徒行伝を見ると、誰でも、どこでも、『主イエス・キリストの御名によってバプテスマ』を授けたのである。

そのあと、(使徒行伝第2章1節〜12節)に
聖霊が降った時、聖霊の力によって、諸国の言葉を即座に語り出したとき、神の大きな働きを聞くとは、どうしたことか」。
と、皆の者は驚き惑ったとある。


その日に使徒ペテロの話しを聞いたユダヤ人達は、悔い改めて、使徒達の教えに従って、三千人が罪の許しのバプテスマを受けた。それから、使徒達の勧めに従って、多くの奇跡としるしが、次々に行なわれた。

以上、述べた様に、聖霊が降る事は、ヨエルの預言の実現であるが、ペテロの証言を聞いた、ユダヤ人たちは、悔い改めて、罪の許しを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けた。
その日1日にして起った、神の御業であり、当時の出来ごととしては、実に革命的、天からの大共演であったと言えるのではないでしょうか。

さて、いつも、イエス・キリストの教えに反対し、迫害して来たユダヤ人達が、使徒たちの話を聞いて、悔い改めて、バプテスマを受けた者が三千人もいたと言う事、そして、同じ日に、使徒達によって、次々に奇跡としるしが行われたのであった。これらの事は、すべて聖霊の働きであって、聖霊を受ける時、力をうけて、地の果てまでわたしの、証人となる、と記されているのである。


(マルコ伝第16章20節)弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった」。

全き救いは『水と霊』のバプテスマを受けることであって、それが、基本中の基本であり、真の福音に伴う、絶対的条件である。

1、聖霊を受けた徴(しるし)は異言(いげん)

聖霊を受けた徴(しるし)の異言とは何か。主イエス・キリストの御昇天(ごしょうてん)後十日目に、エルサレムの宮の二階で聖霊を待望(たいぼう)していた百二十人の者に、俄然(がぜん)聖霊が降った時・・・人類に初めて神の御霊が、聖霊のバプテスマとして降ったのである。其処には、驚くべき天界の異象(いしょう)もあり、
(使徒行伝第2章3節)また、舌(した)のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりひとりの上にとどまった。
(4節)すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、色々の他国の言葉を語りだした。

このように、神の取り扱いも、また、みな異なる言葉を語らされていたのである。然しながらみな一様に、聖霊を受けた徴として現われて来たものは、彼らがみな聖霊に満たされて、御霊が語らせるままに、色々な国の言葉で語らされたのであった。
この、色々な国の言葉と言うのが、主イエスが言われた、『新しい言葉』である。
(マルコ伝第16章17節参照)

また、使徒パウロの言う、
(コリント前書第14章2節)異言を語る者は人に向かって語るのではなく、神に向かって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである。
弟子達が、学んだ事もない言葉で即座に語った事は、誰にも出来ない事である。

(使徒行伝第2章11節)神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。(12節)みんなの者は驚(おどろ)き惑(まど)って、互いに言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。

2、受霊の徴(しるし)

この異言が、口から出る時が、聖霊を受けた絶対的徴(しるし)である。
ペテロは、あのペンテコストの聖霊大降臨(だいこうりん)の時、群がる三千人以上の大衆が、みな驚き惑い、互いにこれ何事ぞ」と言い、或る者はあざ笑って、「あの人達は新しい酒で酔(よ)っているのだ」と言った。


(使徒行伝第2章14節) そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声を上げて人々に語りかけた。
「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾(かたむ)けていただきたい。
(15節)今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。(16節)そうではなく、これは、
(ペテロが語っている、「異言(いげん)」をさしているのであって、その語っている、「異言(いげん)」は、)預言者ヨエルが予言していたことに外ならないのである。すなわち、

(17節)『神がこう仰(おお)せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注(そそ)ごう。そして、あなたがたの息子、娘は、予言をし、若者たちは幻(まぼろし)を見、老人達は夢を見るであろう。

(18節)その時には、わたしの男女の僕(しもべ)たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも予言をするであろう。
(19節)また、上では、天に奇跡(きせき)を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。
(20節)主の大いなる輝かしい日が来る前に、日は闇(やみ)に月は血に変わるであろう。

と預言者ヨエルによって、予言されたその聖霊であると語ったのである。
ペテロは、尚、語って、あなたがたが殺したイエスは、甦(よみがえ)り、また、御昇天して、約束の聖霊を、あなたがたの見聞(みき)きするこのもの「聖霊」を注がれたのである。


(使徒行伝第2章33節)それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。

見る事、聞く事が出来るように、第三者にもはっきりと分かるように、聖霊を下さったのである。
主観的なものではなく、客観的にもいま正に、聖霊が降ったと言い得るのでなければならないのである。


3、使徒時代においては

使徒行伝を見ると、聖霊降臨の記事が五箇所あって、其の二ヶ所だけ、異言の事が記されていない。

(1)異言の記事のない箇所

 1つは、サウロの受霊である。もう一つは、サマリヤの人達の受霊です。

(イ)サウロの受霊

(使徒行伝第9章17節)そこでアナニヤは、出かけて行って其の家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされる為に、わたしをここにおつかわしになったのです」。(18節)するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、(19節)また食事をとって元気を取りもどしたのである。

主から遣(つか)わされたアナニヤが、サウロの上に手をおいて、兄弟サウロよ、主すなわちあなたが来る途中で現れたイエスが、わたしを遣(つか)わされたのである。
あなたが再び、見ることを得、かつ聖霊に満たされる為である、と言うと、直ちに彼の目から鱗(うろこ)のようなものが落ちて見る事を得、起きてバプテスマを受け、かつ食事をして力づいた
とあるだけで、『異言』の事は記(しる)してないが、『コリント前書14章18節』を見ると、

『わたしは、あなたがたのうちの誰よりも多く異言が語れることを、神に感謝する。』

神に感謝すると証言しているが、それは、御霊によって奥義(秘密)を語るので、誰も知る事が出来ない。

(コリント前書第14章4節)異言を語る者は、自分だけの徳を高める。
(ロマ書第8章26節)御霊もまた同じ様に、弱い私達を助けて下さる。なぜなら、私達は、どう祈ったらよいか分からないが、御霊自ら、言葉に現せない、切なるうめきをもって、わたし達の為に、執(と)り成(な)して下さるからである。

ちなみに、リバイバル時代には、教会で全会衆が、異言でお祈りを始めると、1時間以上も、異言のお祈りが、静まらないことは普通であった。その間には各自が様々な聖霊の取り扱いを受けて、いろいろな体験をさせられるので、人によっては、病が癒されたり、天からの力が与えられたり、聖霊によって泣かされたり、腹の底から笑いころげたり、その事によって、性格までが一変して明るく生まれ変わった人もいたほどである。

また、神の啓示や黙示が与えられ、初年、処女に、天の世界が見せられたり、また、天使を見せられたり、異言のお祈りの成果は、実に様々であるが、異言は神の国の奥義を語るとある通り、語る者の徳を高めるものである。また、社会生活でも、実に様々な、祝福が与えられて、力が与えられ、受験の合格、健康の祝福や、産業の祝福、その他、様々な徴(しるし)や、不思議な体験等が多く与えられていた。


(ロマ書第8章27節)そして、人の心を探(さぐ)り知る方は、御霊の思う所がなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒の為に、神の御旨にかなう執(と)り成(な)しをして下さるからである。
(28節)神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
とあります。

(ヨハネ伝第14章15節)で、個人的に助け主を与えると約束されたのである。
(15節)もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。
(16節)わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。(17節)それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

(ロ)サマリヤの人達が聖霊を受けた時

(使徒行伝第8章14節)エルサレムにいる使徒達は、サマリヤの人々が、神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。
(15節)二人はサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。
(16節)それは、彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。(17節)そこで、二人が手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。
(18節)シモンは、使徒達が手をおいたために、御霊が人々に授けられたのを見て、金を差し出し、(19節)「わたしが手をおけばだれにでも聖霊が授けられるように、その力をわたしにも下さい」と言った。
(20節)そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は,おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。
(21節)おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない。
(22節)だから、この悪事を悔いて、主に祈れ、そうすればあるいはそんな思いを心に抱(いだ)いた事が、赦(ゆる)されるかも知れない。
(23節)おまえには、まだ苦(にが)い胆汁(たんじゅう)があり、不義の縄目がからみついている。それが、わたしに分かっている」。
(24節)シモンはこれを聞いて言った、「仰(おお)せのような事が、わたしの身に起こらないように、どうぞ、わたしのために主に祈って下さい」。

サマリヤの人達が、主イエス・キリストを信じて洗礼を受けたと聞いたエルサレムに居る使徒達は、彼らが聖霊を受ける為に、ペテロとヨハネを遣わした。その事は、そうしなければならないほど、重要な事であったからである。
彼らは聖霊を待望(たいぼう)して使徒たちが、按手(あんしゅ)祈祷(きとう)すると、信者はみな聖霊を受けた。この事を目撃したシモンは、伝授料(でんじゅりょう)を持って来て、使徒達に願ったのである。

「わたしが手を按くすべての人が、聖霊を受けるように、この権利をわたしにも与えて下さい」
と。
然し、どうしてこの「シモン」に、聖霊が降った事が分かったのか。信者達が嬉しくなった、また、楽しくなった、声を上げて主を讃美した云々等ではないはずである。そう言う事であれば、彼らはすでに、ピリポの伝道によって、多くの悪霊に憑(つ)かれた者や、中風や様々な病などが癒されて、町中には大いなる喜びが、起こっていたから、何もわざわざ伝授料を持って来て、其の権利を与えてくれと、頼む程の事ではないのである。

シモンは改心前は、魔術師であって、多くの不思議を行い、全市民から、この人は、神の『大能』なり、と言われていたのである。(使徒行伝第8章10節参照)
しかも彼は常にピリポと共に居り、ピリポによって、様々な徴(しるし)と、大いなる奇跡などが行われるのを見て、驚いていた(13節参照)のだから、此処(ここ)には、確かに、何者も真似の出来ない、特別な徴や、不思議があった事は間違いない。それが、即ち異言であったのだ。
パウロの言う、『あなたがたに御霊を与えて、力(ちから)ある業を行なわれる(ガラテヤ書第3章5節)』と言う「力(ちから)ある業」とは異言の事である。また、幻(まぼろし)とか、霊感とか、霊動とか、と言う事であれば、旧約時代の預言者達もまた、幻や、天の異象(いしょう)、霊感、感動、又神の御声などを聞いたからと言って、旧約時代の人達も、聖霊のバプテスマを受けたとは言えないのである。

然し、聖霊のバプテスマとは、主が御昇天された後、御霊となって信ずる者の心の中に、宿られる事である。

(ヨハネ伝第14章17節)それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受ける事が出来ない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それは、あなたがたと共に居り、また、あなたがたのうちに居るからである。

(ヨハネ伝第7章39節)これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊を指して言われたのである。
即ち、イエスはまだ栄光を受けて居られなかったので、御霊が未だ下っていなかったのである。

初めの聖霊降臨、即ち、ペンテコスト以前に現れた、一切の徴(しるし)、不思議は、天的異象であって、聖霊を受けた徴ではない。もし、聖霊を受けた時、同じ現象が現れても、それは、個々における、主の取り扱いであって、絶対的な受霊の徴ではない。受霊の徴は、ただ、内に宿る御霊によって語らしめられる異言以外には無いのである。

4、 異言が伴(ともな)った記事の有る箇所

この他の三箇所には、受霊の徴として異言の伴(ともな)った事が記されている。
その一つは、使徒行伝第2章に記されてある最初の聖霊降臨(せいれいこうりん)の事。
次は第10章にある「コルネリオ家」における「聖霊降臨」の時、第19章にエペソの信者達が聖霊を受けた時である。

(1)コルネリオ家における聖霊降臨(こうりん)

コルネリオ家における、聖霊降臨を見ると、初代教会の信者達の受霊に対する弁(わきま)えがよく分かる。
(使徒行伝第10章45節)を見ると、ペテロの説教中に聖霊が降って来た事が記してある。それで、ペテロと同伴してきた割礼(かつれい)のあるユダヤ人達は、異邦人にも聖霊が降ったのを見て驚き、ペテロは説教を中止した。どうして彼らがみな受霊したと言う事が判(わか)ったのか。


(46節)それは、彼らが異言を語って神を讃美しているのを聞いたからである。
とあり、ただ異言を語る事を聞いたからである。と証している。ペテロはどうか、
(47節)「この人達がわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、誰が拒(こば)み得ようか」。
(48節)こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けさせた。
また、(第11章15節)そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初私達の上に降ったと同じように、彼らの上に下った。

(16節)その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰(おお)せになった言葉を思い出した。
(17節)このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨(さまた)げる事ができようか」。
異言を語る事は、受霊の徴であり、初代教会では、聖霊を受ければ、みな一様に異言を語る。異言を語る事によって聖霊降臨の事実を知ったのである。
昔も今も変わりはなく、受霊の絶対的徴は異言のみである事は間違いない事実である。
異言以外に聖霊降臨の正確な証明は出来ない。異言を語る事のみが、聖書に記された聖霊体験と合致するのである。

(ヨハネ第Tの書第4章1節)愛する者達よ。すべての霊を信じることをはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くの偽預言者が世に出てきているからである。
(コリント後書第11章4節)というのは、もしある人が来て、わたしたちが宣(の)べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受け入れたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍(しの)んでいる。

(コリント前書第14章37節)もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。
(38節)もしそれを無視(むし)する者があれば、その人もまた無視される。
(39節)わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、予言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨(さまた)げてはならない。
(ロマ第8章9節)しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。

5、聖霊によって語らしめる異言(いげん)

異言とは、自分の内に宿る御霊によって、「誰も悟(さと)り得ない」言葉を以って語らしめられる事である。
(コリント前書第14章2節)異言を語る者は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語るのである。
(使徒行伝第2章4節)一同は聖霊に満たされて、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

この異言には三種類ある事が分かれば、異言に関する聖句を正しく悟り得て、迷う事無く、
「異言を語る者は人に語るのではなく、神に語るものである」。
(コリント前書第14章2節)との貴(とうと)き事もわかり、
(イザヤ書第28章12節)主はさきに彼に言われた、「これが安息だ、疲(つか)れた者に安息を与えよ。これが休息だ」と。
異言を語る者は、霊によって奥義(おくぎ)を語り、自分の徳を高める。(コリント前書14章2節4節)とあり、
(18節)わたしは、あなたがたのうちの誰よりも多く異言が語れることを、神に感謝する。と使徒パウロは証言したのである。

(1)異言の三種類とは何か

(イ)聖霊を受けた徴としての異言

(使徒行伝第2章4節)一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、色々の他国の言葉で語り出した。
(第10章46節)彼らが異言を語って神を讃美しているのを聞いたからである。
(第19章6節)聖霊が彼らに下り、それから彼らは異言を語ったり、予言をしたりし出した。

(ロ)聖霊を受けた後、

(コリント前書第14章14節)わたしが異言をもって祈るなら、私の霊は祈るが、知性は実(み)を結ばないからである。
(15節)すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。

「霊で祈ろうとは、異言で祈る事」「知性で祈ろうとは分かる言葉で祈る事」である。

霊で讃美を歌うと共に、「聖霊の賜物であり異言の歌である」。知性でも歌おう。

(エペソ書第5章19節)詩と讃美と霊の歌とを以って語り合い、主に向かって心から讃美のうたを歌いなさい。
(第6章18節)絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、
(ピリピ書第3章3節)神の霊によって礼拝をし、
(コロサイ書第3章16節)詩と讃美と霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
と教えている。

(ユダ書20節)聖霊によって祈り、
(ロマ書第8章26節)御霊もまた同じように、弱い私たちを助けて下さる。(中略)御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
これは異言の賜物を得たから語り得ると言うのではなく、聖霊を受けた者は誰でも、内なる御霊によって、異言で祈り得る事が常道である。
この異言で祈る事が霊の祈りであり、また、主と交わることであって、「霊と真とをもって礼拝する」とは、この異言で神と交わる事である。

(コリント前書第12章28節)神は教会の中で、人々を立てて、(中略)種々の異言を語る者をおかれた。
(第14章39節)異言を語ることを妨(さまた)げてはならない。
とある。

(ヨハネ伝第4章22節)あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからである。(23節)しかし、
真(まこと)の礼拝をする者達が、霊と真(まこと)とをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今来ている。父は、このような礼拝をする者達を求めておられるからである。
(24節)
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊と真(まこと)とをもって礼拝すべきである。
(ピリピ書第3章3節)
神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇(ほこ)りとし、
とある。

6、異言の賜物による異言の説教

(コリント前書第12章8節)すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言葉、
(9節)またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によって癒しの賜物、
(10節)またほかの人には力ある業、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。
(11節)すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。

この様に、九つの霊の賜物の事が記されているのである。
その賜物の中の一つに異言の賜物と言うのがある。
この異言の賜物が与えられると、何時でも、何処でも、異言で説教することができるのである。その賜物による異言と霊の祈りの時の異言とは、異言は異言でも、其の目的が異(こと)なるのである。

(イ)賜物による異言は、人に語るものである。

(ロ)霊の祈りは、即ち、異言のお祈りは神に語る事である。
賜物による異言の説教は、人に語るのであるから、異言を解く賜物が与えられているのである。知恵と弁(わきま)えとは何か。其の賜物の用法である。其の賜物の用法を教えているのが、(コリント前書第14章)である。

(1)異言と預言

異言の賜物には、三種類ある。
「聖霊を受けた時の異言」と、「人に向って語らしめる賜物の異言」と、「異言を訳する賜物」である。

(ハ)神は異言で説教する様に命ぜられた

私が最初に、異言の説教を体験したのは、20代の前半で、北海道の或る教会から招かれた時であった。
札幌は二度目の訪問であった。札幌に着いたその週の礼拝の説教を依頼(いらい)されて、お祈りして講壇(こうだん)に立つと、神は異言で説教する様に命じられた。
わたしはまだ、異言の説教は経験がなかった。どうしたら良いのか困って両手を上げて天を仰ぎ、異言で祈った。
すると、天から力が降ってきて、聖霊に満たされたのである。そして、聖霊の権威に満ちた異言が口をついて出てきたのである。

見ていた会衆は神を恐れて、講壇(こうだん)を見つめて震えていた。
また、異言のお祈りをしだす者もいた。その時、私の霊眼が開かれて、講壇の正面、壁(かべ)向こうの通りに、悪魔サタンが集って来て、がやがやと何を騒いでいるのか、サタンの会を目撃したのである。
異言の説教は、悪魔サタンの会にむかって、厳しく攻撃した。
すると、悪魔の群れは粉砕されて、サタンは蜘蛛(くも)の子を散らすように、退散して完全に消え去ったのである。
悪魔の目的は、教会を破壊することであった。
かねてから、迫害者たちを用いて、その背後で働いていたのである。

私は、異言で説教せよと命じられた、神の御言葉の意味を悟ったのである。
異言は、悪魔サタンに対する、絶対的権威であることを体験させられたのである。

私は異言で説教した後、会衆の中に異言の意味を訳(やく)する賜物(たまもの)を待った。
誰か分かりましたかと尋ねたが、誰からも返事がなかった。すると、その訳(やく)は自分に来ていた。
「今異言で語ったことは、直ぐに起こるでしょう」と預言した。

その直後に、二人の迫害者(はくがいしゃ)が会堂に入って来たのを見て、皆驚いた。
この二人は、某教会に所属し、伝道師の肩書きを持っていた。

礼拝が終わると、二人の迫害者は今までの事を悔い改めて、ひたすら神に祈り、許して下さるまでは帰らないと、真剣な態度でひれ伏していた。二人は、所属教会を脱会して、この教会の平信徒(ひらしんと)になりたいと懇願(こんがん)したのである。

私は、当教会の牧師と、彼らの懺悔(ざんげ)を徹夜で聞いていたが、「先生これほど悔い改めてわびているのですから、許してやって下さい」と言われ、「神の許しを得るために、一緒にお祈りしましよう。」と言って、四人でお祈りしたのである。
すると、神の許しが実在(じつざい)をなして、天から二人の上に下ってくるのを聖霊に感じたのである。
二人は神から打ち砕かれて、泣き崩(くず)れてしばらくやまなかった。
我らはその姿を見て、神の憐(あわれ)みと慈愛の深さを教えられたのである。

礼拝後、一人の男子高校生が、先生の説教を聞いていると霊界のパノラマを見ているようですと言った。

二人はその後、神学校を卒業し、聖書の根本教義を習得して、牧師として活躍している。また、その事実を見ていた、二人の男子高校生も高校を卒業すると、同じように、神学校に入学して卒業後は、共に牧師として活躍しているのである。
災い転じて、幸いとなり、北海道から、4名の牧師が誕生したのである。


(ガラテヤ書第4章4節〜7節)神は私達の心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。

(エペソ書第4章30節)では、
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日の保証であり、救いの日の保証である、とある。また、(ヨハネ第1の書第第5章10節〜13節)永遠の命を持っていることを、悟らせるためである。

(ヨハネの黙示録第2章と第3章)では、耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」「勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう。」

聖霊が降る以前には、異言(いげん)なる言葉は存在しなかった。受霊の絶対的徴(しるし)は、異言である事を聖書は証言している。それ以外の事では、聖霊を受けた正しい証とは言えない。

7、 聖霊の権威と宣教活動

 (ヨハネ伝第20章21節)イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。(22節)そう言って、彼らに息を吹きかけて仰(おお)せになった、
「聖霊を受けよ。(23節)あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
また、(使徒行伝第1章8節)ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土(ぜんど)、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

この時から、福音が全世界に宣(の)べ伝えられる様になったのである。

8、 聖霊は父なる神の約束である

(使徒行伝第1章4節〜8節)「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。(5節)すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。

(エペソ書第1章13節)あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。

福音を聞いて、イエス・キリストを信じた結果、聖霊を受けた事が証しされているのである。

9、 聖霊は真の信仰の条件である

(ロマ書第8章9節)神の御霊があなたがたの内に宿(やど)っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。

また、(使徒行伝第19章1節)アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、(2節)彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。
(3節)では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼が聞くと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。
(4節)そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改(くいあらた)めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧(すす)めたのである」。
(5節)人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。(6節)そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。(7節)その人たちはみんなで十二人ほどであった。

このように、使徒パウロは、主イエスの名による洗礼と聖霊を受けて、異言を語る事を確認しているのである。

10、 聖霊は贖(あがな)いの日の保証である

(エペソ書第4章30節)神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、贖い(あがな)の日のために、聖霊の証印をうけたのである。

11、 聖霊は神の国をつぐ保証である

(エペソ書第1章14節)この聖霊は、神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全(まった)くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至(いた)るためである。

12、 聖霊は神の子となる身分を与える

(ガラテヤ書第4章4節)時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった。(5節)それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。
(6節)このように、あなたがたは子であるのだから、神は私たちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。(7節)したがって、あなたがたはもはや僕(しもべ)ではなく、子である。子である以上、また神による相続人(そうぞくにん)である。

聖霊を受ける事が、人の子から神の子に生まれ変わった、確実な証である。

13、 聖霊は永遠の命である

(ヨハネ第Tの書第5章10節)神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。(11節)そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜り、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。(12節)御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
(13節)これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟(さと)らせるためである。

14、 御霊は真理の教師である

(ヨハネ伝第14章16節〜17節)わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
(17節)それは真理の御霊である。

真理の御霊は、助け主であると言う事実が一番重要である。

(ヨハネ伝第15章26節)わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。

(ヨハネ伝第14章26節)しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。

15、 御霊は助け主である

(ロマ書第8章26節)御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。(27節)そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

16、 御霊は九の霊の賜物の働きをする

(コリント前書第12章1節)兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくない。
(2節)あなたがたがまだ異邦人であった時、誘(さそ)われるまま、物の言えない偶像(ぐうぞう)のところに引かれていったことは、あなたがたの承知しているとおりである。
(3節)そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」と言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。
(4節)霊の賜物(たまもの)は種々あるが、御霊は同じである。(5節)務めは種々あるが、主は同じである。
(6節)働きは種々あるが、すべてのものの中に働(はたら)いてすべてのことをなさる神は、同じである。
(7節)各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益(えき)になるためである。
(8節)すなわち、
(1)ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、(2)ほかの人には、同じ御霊によって知識の言葉、
(9節)
(3)またほかの人には、同じ御霊によって信仰、(4)またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、
(10節)
(5)またほかの人には力あるわざ、(6)またほかの人には預言、(7)またほかの人には霊を見わける力(ちから)、
(8)またほかの人には種々の異言、(9)またほかの人には異言を解(と)く力が、与えられている。
(11節)すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。

以上の様に九つの霊の賜物の異なる働きがあり、この御霊の異なる働きによって、教会全体の益となり、教会の頭(かしら)である、イエス・キリストの御霊の働きを知る事が出来るのである。

17、 教会の組織と聖霊の働き

(コリント前書第12章28節)神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助(ほじょ)者、管理(かんり)者、種々の異言を語る者をおかれた。
(29節)みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。(30節)みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか。(31節)だが、あなたがたは、更に大いなる賜物(たまもの)を得ようと熱心(ねっしん)に努(つと)めなさい。そこで、わたしは最(もっと)もすぐれた道をあなたがたに示そう。

18、 教会はキリストの花嫁である

(エペソ書第5章23節)キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。(24節)そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。
(25節)夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身を捧げられたように、妻を愛しなさい。(26節)キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、(27節)また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
(30節)わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
(31節)「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。(32節)この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。

(1)真の礼拝者

(ヨハネ伝第4章24節)神は霊であるから、礼拝する者も霊とまこととをもって礼拝すべきである。
また、(ヨハネ伝第6章63節)人を生かすものは霊であって、わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
(ヨハネ第1の書第5章6節)このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけでなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。
また、(ヨハネ伝第1章1節)言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。

それ故に、聖書の言葉を信じないと言う事は、即ち、神を信じていない事と同じである。
以上の様に、この聖書は正に、神の言葉であり、聖霊のバプテスマによって、真理の御霊に導かれて、多くの真理を学ぶ事が出来るのである。

(2)無意味な礼拝者

(マタイ伝第15章1節)ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、(2節)「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。
(3節)イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたは自分たちの言い伝えによって、神のいましめを破っているのか。(4節)神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父また母をののしる者は、必ず死に定められる』と。(5節)それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、(6節)父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言い伝えによって、神の言(ことば)を無にしている。
(7節)偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
 (8節)『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
 (9節)人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。

(10節)それからイエスは群集を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。(11節)口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。

この様に、イザヤの預言通り、今の世界も同様な事をしているのではないでしょうか。

19、 聖霊は最後の革命的救いである

(マタイ伝第12章31節〜32節)だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚(けが)す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。(32節)また人の子に対して言い逆(さか)らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

{注}  聖霊は言葉で汚す事も、聖霊に対して言い逆らう事も永遠に許されない事を、聖書は警告(けいこく)しているのである。それ故に、個人の信仰生活においても、神の教会においても、聖霊の絶対的尊厳(そんげん)は守られなければならない。
また、聖霊のバプテスマの保証がなければ、全き救いに与(あずか)る事も、永遠の命、すなわち、最後の新天、新地で神と共に生きる事も出来ないのである。

20、教会に関する、聖書の言語

真の教会は、イエス・キリストの体であって、決して建物ではない事を、明確にしなければならない。

ちなみに、主イエスは(ヨハネ伝第2章20節)において、46年間もかかって築(きず)いた神の宮をぶっ壊(こわ)して、たった三日でご自分の体なる宮を打ち建てると断言されたのである。

新約聖書の原語は、ギリシャ語である事は、周知の通りであるが、ギリシャ語で言う教会のことをエックレーシヤーと言っている。ユダヤ教の会堂のことをシナゴーグ(シュナゴーゲー)と言うので、これと区別をするためにキリスト教信者の集まりをエックレーシャーと呼んでいる。エックレーシャーとは、決して教会の建物を指(さ)しているのではなく、信者の集会の事を意味しているのである。(大久保史彦氏の聖書語学同好会、2000年5月10日発行を参考にした)。

また、主イエスが言われた様に、わたしが、あなたがたを選んだのである。

(マタイ伝第18章20節)
「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
と記されているように、たとえ、ふたりや、三人の集りであっても、御臨在の主イエスを礼拝する為の教会の集まりである事にはちがいないのである。新約聖書の原語で言う、ギリシャ語の教会とは、主がこの世から選び出され、エックレーシャーされた、クリスチャンの集りであることは間違いないのである。


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