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第一章 正しい洗礼第二章 洗足式第三章 聖霊のバプテスマ第四章 真の救い第五章 死者の救い第六章 真の神
第七章 神の御名について第八章 聖餐式第九章 安息日第十章 聖霊の働きと権威第十一章 神の教会第十二章 ヨハネの黙示録

1 福音による全たき救いは 2 主は天地の権威を宣言して言われた 3 使徒達が実行した正しい洗礼とは 4  ピリポのサマリヤ伝道
5 ペテロの説教中に聖霊が降る 6 真の信仰の条件は聖霊を受ける事 7 全たき救いは「水と霊」である 8 現在の天地の終りが来る
9 新しい天地の始まり 10 最後の大審判の罪状 11 む す び  

1 福音による全たき救いは


(a) 救い主である、主イエスが、最初に宣言された救の条件は、信じてバプテスマを受ける事であった。主イエスは弟子達に命じて言われた。
(マルコ伝第16章15節)「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。(16節)信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。(17節)信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、(18節)へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
これは、この福音の中にある神の約束である。

(19節)
主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右に座られた。(20節)弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。


「福音は四福音書で伝えられ」、「救いは使徒行伝」の中で行われたのである。確かに、福音書で命じられた、バプテスマは、イエス・キリストの使徒達によって実行され、イエス・キリストの御名によって、全身水の中に入って浸礼の洗礼が行なわれたのである。
イエス・キリストの御名でバプテスマを受けると、聖霊が降り、誰でも、「水と霊」とのバプテスマを受けて、全たき救いに与る事ができるのである。

(b) 真の福音には、主も共に働かれるが故に、当然の事ながら、奇跡と、徴と、不思議が伴う事は確かなことであった。聖書の言が真理である事が、立証したのである。
なお、聖書の福音は神の約束であるがゆえに、その言葉通りに実行すれば、病気は癒され、悪霊は追い出され、新しい言葉を語り(新しい言葉とは、聖霊を受けて異言、霊言、を語らされる事である)、この異言は、霊の世界では、権威であり、このことは、使徒行伝の中で、イエス・キリストの使徒達が体験した、歴然たる事実である。
2 主は天地の権威を宣言して言われた

(a) (マタイ伝第28章18節)イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、一切の権威を授けられた。(19節)それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、(20節)あなたがたに命じておいた一切の事を守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

天地の権威を持って、世の終わりまで共にいて下さる事を、約束されたのであり、福音を伝えることは、主と共に働くと言うことである。

(b) 主の命令には、誰も背く事は出来ない。「父と子と聖霊との名」とは、唯一の神の御名、神の歴史の名である。
(イザヤ書第9章6節)の預言通りに、男の子は生まれ。その名は、大能の神、永遠の父ととなえられるとあり、(ヨハネ伝第5章43節)わたしは父の名によってきたとある。(マタイ伝第1章21節)御使いは、その名をイエスと名づけなさいと伝えたのである。聖霊によって、生まれたから神の子と呼ばれ、人から生まれたから人の子とも言われたのである。

しかし、イエスが昇天された後は、聖霊の時代となり、
(ヨハネ伝第14章26節)父が私の名によってつかわされる聖霊は、とあり、「聖霊の名は」イエスであることは間違いなく、初代教会の使徒達は、使徒行伝に於いて、どこでも、誰でも、イエス・キリストの御名以外では、バプテスマを、授けなかった事を見ても、明白な事実である。それ故に、「父と子と聖霊との名は」、イエス・キリストの御名である事は、間違いのない真理である。

(ヨハネ伝第14章13節)わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。(14節)何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。(15節)もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。
(16節)わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。(17節)それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

(18節)
わたしはあなたがたを捨てて弧児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。

(ヨハネ伝第20章21節)イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。(22節)そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。(23節)あなたがたがゆるす罪は、誰の罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。」

と以後、聖霊の時代となったのである。

(c) 
(ヨハネ伝第5章43節)で主イエスは、『わたしは父の名によって来た』と証言され、また、(ヨハネ伝第14章26節)『助け主、すなわち、父がわたしの名によって遣わされる聖霊は』とあり、聖霊の名もイエスである事が明白である。

(d) 主イエスは、あえて、天地の権威を示して、「父と子と聖霊との名」によって、バプテスマを施せと命じられたのである。バプテスマ(洗礼)を受ける事は、神の御心である事は論をまたない。洗礼が、罪の許しによる救いである事を考えれば、一人の亡びることも好まれない、神の愛と憐(あわれ)みによる、警告である。

今や、インターネット時代であり、「すべての国民を」弟子として、「あなたがたに命じておいた一切の事を守る様に教えよ」、と言われた、主の御命令を実行する事が、可能になった時代である。

(マタイ伝第24章14節)この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

また、神はこう言われる、
(コリント後書第6章2節)「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。
今は誰でも、バプテスマを受けて、救われる時代である。

3 使徒達が実行した正しい洗礼とは

(a) ここからは、実際に使徒達が実行した、イエス・キリストの名によって行われたバプテスマを使徒行伝の順に検証して見たい。

(使徒行伝第2章36節)
イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリスト(救い主)としてお立てになったのである。
(37節)人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
(38節)すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物(たまもの)を受けるであろう。


(b) (39節)この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。(40節)ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲(まが)った時代から救われよ」と言って勧めた。
(41節)そこで、彼の勧めの言葉を受け入れた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。(42節)そして一同はひたすら、使徒達の教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていた。
(43節)みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。


(c) この様に、主イエスが、
(マタイ伝第28章18節〜20節)で、(18節)「わたしは、天においても地においても、一切の権威を授けられた。(20節)あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ。」と、命じられた御言葉に従って、使徒達が最初に実行したバプテスマ(洗礼)は、イエス・キリストの名によって実行されたのである。
そして、ペテロは「この曲がった時代から救われよ」と勧めたのである。
この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわち、あなたがたと、あなたがたの子らと、遠くのもの一同とに、与えられているものである、と証言したのである。

(d) 
(旧約聖書の創世記第6章5節)主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。(6節)主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、(7節)「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これを造ったことを悔いる」と言われ、ノアの家族8名だけ残して、その当時の全人類を、地球上から全て滅されたのである。

「昔ノアの箱舟が造られている間」、箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなた方をも救われるのである。
また、
(使徒行伝第16章31節)パウロとシラス、二人が勧めた時も、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」と、福音を信じるように、勧めたのである。

(32節)それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。(33節)彼は真夜中にもかかわらず、二人を引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、(34節)さらに、ふたりを自分の家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ。のである。
4 ピリポのサマリヤ伝道
(a)  (使徒行伝第8章9節〜17節)さて、この町に以前からシモンという人がいた。彼は魔術を行ってサマリヤの人たちを驚かし、自分をさも偉い者のように言いふらしていた。(10節)それで、小さい者から大きい者にいたるまで皆、彼について行き、「この人こそは『大能』(たいのう)と呼ばれる神の力である」と言っていた。
(11節)彼らがこの人について行ったのは、ながい間その魔術に驚かされていたためであった。(12節)ところが、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた。
(13節)シモン自身も信じて、バプテスマを受け、それから、引きつづきピリポについて行った。そして、数々のしるしやめざましい奇跡が行われるのを見て、驚いていた。


(b) 
(14節) エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。(15節) ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。
(16節)それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。(17節)そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。


(c) この、
(8章12節)ピリポが宣べ伝えている御言も、神の国とイエス・キリストの名について語っている事に、注目して頂きたい。信じた人々が、男も女も、信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けると、数々の徴やめざましい、奇跡が起こっているのである。この、バプテスマを受けた人々には、当然の如く、聖霊が降っている。

それ故に、主イエスは、ニコデモの問いに対して、誰でも、「水と霊」とから生まれなければ、「神の国」に入ることは出来ない事を教えられたのである。
ピリポが神の国と、イエス・キリストの御名について宣べ伝た時、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けたのであった。神の国に入るには、誰でも、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けること、「霊」とは聖霊が、与えられ異言を語らしめる。即ち、「水と霊」とから生まれなければ、神の国に入れない事を、イエス様は、ユダヤ人の指導者ニコデモに教えられたのである。

(d) また、
(ヨハネ伝第1章12節)その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。(この力とは聖霊を受ける事をさしているのである)
(13節)
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。


まさに、人の子が、神の子として生まれ変わるには、「水と霊」のバプテスマを受ける事以外に、全き救いに与かる事は出来ない事を聖書は明確に教えている。
5 ペテロの説教中に聖霊が降る

(a) (使徒行伝第10章42節〜48節)カイザリヤのコルネリオ家でペテロの説教中に聖霊が降った。
(42節)それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。(43節)預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
(44節)
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。

(b) (45節)割礼を受けている信者(ユダヤ人たち)で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。
(46節)それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。
(正に「異言」に驚いたのである。)
そこで、ペテロが言い出した、(47節)この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。
(48節)こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、なお数日のあいだ滞在してもらった。


(c) この章で特筆すべき点は、イエス・キリストは、生者と、死者との審判主(さばきぬし)として、神に定められている事です。また、
(ヘブル書第9章27節)には、人間は一度死ぬ事と、死んだ後さばきを受ける事が、定められている。(今に至るまで)どんな、聖人君子と言えども必ず死ぬ事は、誰も否定することが出来ないのである。その当時の、ユダヤ人社会の常識としては、異邦人に聖霊が与えられる事は信じられない事であった。
(使徒行伝第10章34節)
ペテロは、口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、(35節)神を敬い義を行う者はどの国民でも受け入れて下さることが、ほんとうによくわかってきました。」

と証言したのである。

(d) ここでは、コルネリオの信仰と祈りに答えて、神の御使いは、先ず、使徒ペテロを招いて、御言葉を聞く様にと伝えたのである。神は御言葉を聞いている人々に対して、神の側から、積極的に聖霊を与えられたのであった。
聖霊を受ける事が救いの保証であり、永遠の命であり、神の実子としての身分の保証であり、神の国を継ぐ保証であると書いてある。と、聖書は証しているからである。
この様に「水と霊」のバプテスマを受ける事が、全き救いである事は間違いない事をおしえているのである。
6 真の信仰の条件は聖霊を受ける事

(a) (使徒行伝第19章1節)アポロがコリントにいた時、パウロは奥地を通ってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、(2節)彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。
(3節)
「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼が聞くと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。


(b) 
(4節) そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。(5節)人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。(6節)そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、予言をしたりし出した。(7節)その人たちはみんなで十二人ほどであった。
バプテスマ(洗礼)がイエス・キリストの名で行われなければならない事は、その事によって、必ず聖霊が与えられたからである。

(c) 
(11節)神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。(12節)たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。(13節)そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴しているものたちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。(14節)ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。

(d) 
(15節)すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。(16節)そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。
(17節)このことがエペソに住むすべてのユダヤ人やギリシャ人に知れわたって、みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた。


(e) 
(18節)また信者になった者が大ぜいきて、自分の行為を打ちあけて告白した。(19節)それから、魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨てた。その値段を総計したところ、銀五万にも上ることがわかった。(20節)このようにして、主の言はますます盛んにひろまり、また力を増し加えられていった。

以上は、聖書に記された、キリストの使徒達が主イエスから、命じられた事を、忠実に実行した結果の証である。

7 全たき救いは「水と霊」である

(a) イエス・キリストの聖名による、バプテスマを受けた者には、聖霊があたえられる。水とは、「洗礼」のこと、霊とは、「聖霊」の事である。
(ヨハネ伝第3章5節)だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国に入ることはできない。
また、
(マルコ伝第16章16節)信じてバプテスマを受ける者は救われる。
主も彼らと共に働き、御言葉に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになったのである。イエス・キリストの使徒たちは、どこでも、誰でも、「水と霊」とのバプテスマを受ける事が、救いであることを力説して行ったのである。
8 現在の天地の終りが来る

(ペテロ後書第3章10節)しかし、主の日は盗人(ぬすびと)のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。(11節)このように、これらはみな崩れ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、(12節)極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
この警告は、また、
(テサロニケ前書第5章3節)人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らを襲って来る。そして、それからのがれることは決してできない。
とあり、また、
(ルカ伝第17章28節〜29節)ロトの時にも同じような事が起こった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、(29節)ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
と、過去において既に、この様な、事実が実際に起こった事を、聖書の歴史は教えているのである。

(ペテロ後書第3章13節)
しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

願わくばその日の来る前に、1日も早く、水と霊との全き救いを受けられる事を、心からお勧めしたい。
9 新しい天地の始まり
 
最後の大審判、
(ヨハネの黙示禄第20章11節)には、また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。(12節)また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
(13節)
海はその中にいる死人を出し、死も黄泉(よみ)もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。(14節)それから、死も黄泉(よみ)も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
(15節)このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池になげ込まれた。


これこそが、永遠の地獄の刑罰であり、永遠の滅びである。ここからは、永遠に海の無い、新しい天と、新しい地の始まりである。

(ヨハネの黙示禄第21章1節)わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。(2節)また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。(3節)また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、(4節)人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

(5節)
すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。(6節)そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価(あたい)なしに飲ませよう。
(7節)
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

そして、この永遠の全たき救いこそが、
(ヨハネ伝第3章5節)に記されている、水と霊のバプテスマによる全き救いの結果である事を今ここで、悟らなければならない。
10 最後の大審判の罪状
(ヨハネの黙示禄第21章8節)しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。

日本をはじめ、世界のほとんどの人々が、この八つの罪状に該当して、永遠の滅びの刑罰に処せられる事が明確に警告されているのである。
11 む す び
以上の様に、現在の天地と海は消えて無くなる。それ故に、新しい天と新しい地を待ち望むべき事を、聖書が預言し、また、警告しているのである。それ故に人は永遠の救いが必要であり、新しい定住の地、すなわち、「新天新地」を求めなければならないと言うのである。
誰でも、水と霊とから新しく、生まれなければ、神の国に入る事が出来ないと、勧める所以(ゆえん)である。
真の福音には、ヨハネの黙示禄第21章の「新天新地」が約束されている。「新しい天地の実現」によって、聖書の約束の救いが、完全に全うされるのである。

(ヘブル書第2章4節)さらに神もまた、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨(みむね)に従い、聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。

真の福音には、奇跡と、徴と、不思議が伴う。これが常道であって、真の福音に伴う様々な、神の御業が証明しているのである。
全き救いは『水と霊』である。信ずる者は幸いなり、主イエスを信じなさい、そしたら、あなたも、あなたの家族も救われる。
願わくば、神の言葉である、聖書の教えに従って、全家族が救われて、毎日平安で、祝福された豊かな人生を送られることを心からお勧めする。
主イエスの恵みが、豊かにあります様に、栄光主にあれ、ハレルヤ アーメン。

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