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第一章 正しい洗礼第二章 洗足式第三章 聖霊のバプテスマ第四章 真の救い第五章 死者の救い第六章 真の神
第七章 神の御名について第八章 聖餐式第九章 安息日第十章 聖霊の働きと権威第十一章 神の教会第十二章 ヨハネの黙示録

第五章 死者の救い

1 死者の救いは身代わり洗礼である 2 最後の大審判、この、『八つの罪』 3 死者に対する福音 4 死者の告白は
5 死者の救いの道 6 生きている者の救い 7 死者の救い 8 聖霊だけ受けた者の身代わり洗礼
9 身代わり洗礼の体験 10 海外での身代わり洗礼 11 むすび 12 後記
死者の救いは身代わり洗礼である
聖書を読むと、第一の死と、第二の死があることを教えている。
第一の死は、
(ヘブル書第9章27節)に死んだ後さばきを受けることが、人間に定められていると書いてある。

(ヨハネの黙示録第20章12節)には、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これは命の書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物にかかれていることにしたがって、さばかれた。
(13節)
海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。(14節)それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
(15節)このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

最後の大審判、この、『八つの罪』


(黙示録第21章8節)
しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行なう者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃える池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。

人間の死と黄泉の世界の事が、旧約聖書に64回、新約聖書で9回、計73回も記されている。
新約聖書の
(ルカ伝第16章19節〜31節)に詳しく記されている。
(ルカ伝第16章24節)金持ちの死者の告白を聞くと、わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています、と訴えている。

また、
(ヨブ記第7章9節)雲が消えて、なくなるように、陰府(よみ)に下る者は上がって来ることがない。
また、
(ヨブ紀第26章6節)を見ると、神の前では陰府(よみ)も裸である。滅びの穴もおおい隠すものはない。
などと告白しているのである。
死者に対する福音
死と黄泉(よみ)の世界の、叫びに対して、あわれみと慈悲の神は、死後の救い。
下記の御言葉が示す通りである。
(ペテロ前書第4章6節)死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。

死者の告白は
身代わり洗礼式の体験、死者の告白を聞くと、黄泉の世界から、直ぐにでも救い出される事を切に願っている死者達。(ペテロ前書第3章18節)キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。(19節)こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。
(20節)これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られている間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。


このように、死者に対する福音は、神の御心であって、初代の使徒達や、預言者たちに現わされたのである。
しかし、第二世紀以降の指導者達が、「水と霊」による救いから離れ去ったため、この真理は教会に隠されて今日に至ったのである。
主は、この末の時代に、この奥義を我らに表し、今や、死者の救いは常道の福音として多くの徴、不思議を以ってその真理を証(あかし)されているのである。
死んだ者は、神の最後の大審判で、裁かれて、地獄の火の池に投げ込まれるとある。
ヨハネ伝第3章5節に書いてあるように、水と聖霊によってバプテスマを受けて、全き救いに入れられ、神の国に入ることができる。
(使徒行伝第16章31節)
「主イエスを信じなさい、そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。
死者の救い
(ペテロ第一の4章6節)死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。
(マルコ伝第16章16節)信じてバプテスマを受ける者は『救われる』。しかし、不信行の者は罪に定められる。
とある。

(コリント前書第15章29節〜30節)「死者のために」バプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。
もし『死者が』全く「よみがえらない」とすれば、なぜ人々が死者のために、バプテスマを受けるのか?
と、論じているのである。

バプテスマは、人の”生”と”死”に対して、『罪の許し』を与えるために、行なわれているのである。
『黄泉にある霊はみな、救い出される事を切に、願っている』。
それ故に死者が、黄泉の世界から『救い出される』為には、身代わりのバプテスマ(洗礼)を受ける必要がある。
そうする事によって『罪を赦るされて』、天国にうつされるのである。

然るに、現代の教会は、聖書の
(マタイ伝15章7節〜9節)に書いてあるように、
(7節)偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
(8節)『この民は、口さきではわたしを敬(うやま)うが、その心はわたしから遠く離れている。
(9節)人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
イエス・キリストの使徒たちが、教えた教えに従わず、行なわないから、主も共に働かれず、御言葉に伴う確かな証しも行なわれず、また、徴、(しるし)不思議、、奇跡などが、伴(ともな)わないばかりか、何の証(あかし)も、徴(しるし)も、与えられないのである。

真の福音である、『水と霊』のバプテスマによる『救い』を行なわずに、また、教会に与えられた『特権』の一つは『罪の赦し』であるが、人の罪を赦す唯一の条件であるイエス・キリストの名による『バプテスマ』も行なわず、それゆえに、『約束の聖霊は』降(くだ)らず、神の国に新しく生まれることも、出来ないのである。
死者の救いは、イエス・キリストの御名による、身代わり洗礼のほかにはないのである。

黄泉に在る霊は喜べ、死者を出して悲しめる人は喜べ。亡き先祖に対する一切の疑惑は、主イエスの御名による身代わり洗礼によって救われるのである。

主は、既に十字架に架かって万民の罪を贖って下さった。
墓場に葬られた時、主イエスは、黄泉に下って、ノアの大洪水の時に主の言葉を拒んだ、有史以来最も奸悪(かんあく)な霊どもの所に行き、福音を伝えて、死後の救いの有る事を死者達に伝えられたのである。

死んだ者と、生ける者との裁き、主なる神の御名は讃(ほ)むべきかな、だれか主の心を知った者があろうか、神の
知恵と知識との富は深いかな。
聖霊だけ受けた者の身代り洗礼
聖霊は受けたが、洗礼を受けないで死んだ者はどうなるのか?

1、聖霊を受けても、洗礼を受けないで死んだ者は、全き救いに与かっていないので、死後第三の天に昇ることは出来ない。
2、洗礼によって、イエス・キリストの聖名を着ないで、花嫁の装いがないから、キリストの新婦たる特権を失う。
3、イエスの死の状態と同じ、洗礼を受けていないから、肉体の復活に与かることは出来ない。
 (a) 身代り洗礼を行う事によって、その復活に与かり、キリストの花嫁たる身分になることができるのである。
 (b)  しかし、生前に洗礼を拒んだ者は、復活の救いも、義の冠を受けることも出来ない。
身代わり洗礼の体験
八重山伝道を開始して第二回目の洗礼式の時であった。
一日で、90名の人々が洗礼を受けた。場所は石垣市の宮良川である。
後で聞いた話であるが、洗礼式の最初から、川の水が真っ赤な血の川に変わっていて、洗礼式が終るまで、イエス様が、洗礼を行っている血の川の中に立って、一人一人の洗礼式を見ておられた、そして洗足式の時にも、イエス様がそばに立たれた、という証言があった。その事実は多くの信者達に目撃されていたのである。

90名の洗足式が終わった後、一人の婦人が私の所に来て、先祖の身代わり洗礼を受けたいと申し出たのである。
私は、単なる形式的な事は出来ないと断ると、「聖書に書いてあるから信じます。先生も、身代わり洗礼によって、死者が救われると教えらました。聖書の御言葉を信じています。是非身代わり洗礼をお願いします」と告白したので、私は初めて死者の為に、身代わり洗礼を行う事にした。

誰の身代わりかと聞くと、ご主人の亡き父の身代わり洗礼とのことで、私は黄泉の死者に対して、イエス・キリストの御名によって、バプテスマを施した。
その瞬間に先祖が、黄泉の世界から解放されて、天に昇って行く姿を目撃したのである。そして、身代わり洗礼を受けたその先祖の為に、洗足式を行っていた時には、その先祖が歩まれた全生涯を、パノラマを見ている様に見せられたのである。

第二回目は、日本の最西端、与那国島の久部良(くぶら)部落での、洗礼式のときである。
場所は部落の南側にあるナーマ浜であった。
終戦の日に死亡した父の身代わり洗礼を、母が受けたのである。

或る日、八重山教会の、南側の海岸の岩陰で祈っているときに、突然、死んだ父が天から姿を現した。
その告白を聞くと、亡父が、自分の生まれた故郷に行って、島の人々を、救ってやってくれと頼むのである。

私は突然のことで、サタンが父の姿を借りて、私を惑わしに来たのかと誤解して、にらみ付けていると、すぐにイエス様が現れて、「そうしなさい。そうして東京に行きなさい。そうしたら、これから進む道が示される」と言われたのである。
身代わり洗礼を受けた死者は、間違いなく、天国に移されて、イエス様と共にいて、死者の願いを聞いてくださったのである。
死者となってもなお、故郷の人々を愛して、イエス様に執(と)り成(な)して、島の人々が救われる様に願っている、と確信したのである。

私は早速、このことを教会の信者達に報告して、亡き父の郷里、与論島に開拓伝道に行くことにした。
石垣を出発して、世論島に行く前に、まず、奄美諸島の沖永良部(おきのえらぶ)に渡った。奄美諸島の牧師達に呼びかけて、数名の先生方にも真の福音の証人として同行してもらうことにしたのである。

世論島は、他の宗教を一切受け付けないと言う話であった。
私達は、奄美大島を巡航している、照国丸で世論島に渡った。島に上陸した時は、夜半を過ぎていて、宿屋も開いていなかったので、浜で一夜を明かした後、茶花の旅館に宿をとった。

先ず、与論町役場に町長さんを表敬訪問して、訪問の目的を説明した。それから、各部落長さんを訪ねて、ご挨拶をして、協力をお願いしたのである。
部落長さんには、「公民館や、集会所に集まってもらい、先生方のお話を聞いてもらった方が良いでしょ。」と、良きアドバイスを頂いたのである。

実際に伝道集会を始めて見ると、島の人々は、熱心に福音を聞き、夜半過ぎまで帰ろうともせず、「本当にそうだな」と言って、確認のために質問したりして、伝道集会は延々と明け方まで続く時が多かったのである。

最後は立長(りっちょう)の公民館での伝道集会であった。与論島の伝道では、世々の経綸を用いて、聴衆が理解しやすいように、大きな白紙や黒板に書いて、図解で説明したのである。

主イエス・キリストが来て、神の国の福音を伝えた以降は、括弧(カッコ)の時代と言われ、神の奥義の時代ある。
昔の預言者や、天の御使いたちにも、神は括弧(カッコ)の中は、教えなかったと言われる。

与論島の伝道では、「水と霊」との救いを受けた信者の群れが起こり、多くの徴(しるし)や、奇跡も起こって、教会の設立も出来たのである。
教会の牧師には、神学校を卒業されたM牧師に就任してもらう事を決めた。

私達はイエス様のお言葉に従って、関東大聖会に参加する為、上京したのである。

関東大聖会は、三日間行なわれた。
八重山教会の南側の海岸で、イエス様が現れて言われたとおりに上京して、関東大聖会に出席した。大聖会中の三日間、同じ時間に、三度も、天から雷の様な声で、「南米に行け」と神の命令が下ったのである。

神の言い賜いし事は、必ずなるとある。主イエスが言われた通りの事が、現実に起こったのである。
私に対する神の御計画は、南米に行け、との天命であった。

第三回目の身代わり洗礼の場所は、日本列島最西端の島、与那国町久部良(くぶら)部落の南側の海岸であった。
戦時中の避難小屋で、12歳で病死した娘のために、母親が身代わり洗礼を受けた時の事である。
身代わり洗礼の前にお祈りしていると、黄泉にいる娘が現れて、母親に、「お母さん、親不孝な私の為に、神様に執り成して下さる事は有難う御座います。」と言っているそばから、見た事もない、年寄りの男の人達が現れて、亡き娘に押し掛けて来て、「私はどうするか、私はどうするか、私の為に、頼む、頼む」と、多くの死者からすがりつかれて、困ってしまった。
多分それは、この家の先祖達の霊であったのだろう。

その日は、中学校の校長先生で現職の仏教のお坊さんも、洗礼を受けに来ていた。
海外での身代わり洗礼
ブラジル、サンパウロ州の奥地プレシデント・プルデンテ市の近郊で、農業を営んでいる沖縄系の親子が、洗礼を受けに来た時のことである。親子共に洗礼を受けて、喜びに満たされていた、その時に告白された事である。

実は、沖縄の親戚から手紙が来て、沖縄のユタ(霊媒者)が、沖縄に帰って来て先祖の供養をしないと、”たたり”があると言っているが、ブラジルから帰国するには、大金がかかり、金も無いし、どうしようかと悩んでいると相談をされたのである。

それを聞いて私は言った。
「あなた達はさいわいだ。ブラジルからあの世に行こうと、沖縄からあの世に行こうと、”あの世”と言う黄泉の世界は一つである。心配しないで、先祖の身代わり洗礼を受けなさい」と教えると、安心したのか、喜んで身代わり洗礼を受けたのである。

親子は、「水と霊」とのバプテスマ(洗礼)を受けて救われた。
身代わり洗礼を受けるのに何のさしつかえもない、と話すと、父親は先祖の為に、身代わり洗礼を受けたのである。

先祖の霊は天に移されて、黄泉の世界にはいないから、決して「たたり」は起らないと言うと、親子は、自分達も救われて、一日で先祖の救いも行い、祈念すべき最高の一日だったと感謝したのである。

また、アルゼンチンのある家では、死んだ人が家の内庭を、行ったり、来たりしていて、長女が、わけの分からない病気をして治らない、苦しみ悩んでいるとの事だった。

この家族は、すでに『水と霊』の救いを受けていたので、それでは早く、長女に身代わり洗礼を受ける様にと勧め、すぐに身代わり洗礼を受けさせた。それっきり死者の亡霊は現れなくなり、長女の病気も癒されたのである。

前記の示す通り、さまざまな例はあるけれど、黄泉の世界にいる死者の願いは、身代わり洗礼を受けて、すべての罪とがは許され、救い出されることが、最高の先祖孝行であると言えるのである。
むすび
死後は、(ルカ伝第16章19節〜31節)に代表されるように、黄泉の火炎の中で苦しみもだえる金持ちの叫びも、また、身代わり洗礼の時に、黄泉の世界から救いを求める先祖の叫び等にも、耳を傾けようではないか。

身代わり洗礼によって、亡くなった親しい人々を死の苦しみから救い出すことが、先祖に対する最高の孝行である。また、
(詩篇第116篇15節)主の聖徒の死はそのみ前において尊い、と書いてある。

(テサロニケ前書第4章13節〜18節)(13節)兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。(中略)(16節)キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
(マタイ伝第27章52節)また墓が開け(ひらけ)、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。
(ロマ書第11章36節)万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光が永遠に神にあるように。アーメン。
後 記
聖書の難解の節について
聖書には難解の節があるが、「知らざるを知らざる」として置く事が過(あやまち)を少なくする道である。例えば「身代わり洗礼」についても、日本文で書かれた古い註解書ラルネデ師の(コリント前書15章29節)の解説を見ると、当時のコリント人には、この問はよく理解された事であったが、しかし、今の人達には甚だ解し難い事である。あのペテロが言ったように、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。(ペテロ後書第3章16節)
聖書の真理の真偽の識別法は
1、主イエス・キリストは如何に思い、行い、言われたのか。
2、聖書は何と言っているか。
(ロマ書第4章3節)
3、初代の使徒達が、実行した事があれば、それを文字通りに信じる事。そして、その通り実行する事である。その時に、その真理は啓示されて我がものとなるのである。
4、聖書の言葉を信じて実行する事によって、神の祝福を受けて、その事が絶対的真理である事が立証されるのである。
身代わり洗礼に就いて
(コリント前書第15章29節)にある「死者」と、(ヘブル書第9章27節)の"一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが、人間に定まっている"と記されている「死者」とは同じである。
また、
(ヨハネの黙示録第20章12節〜15節)にある、最後の大審判の時まで、黄泉の世界にいて苦しんで、裁きを受けて滅ぼされる「死者」は皆、同じ「死者」であって、この福音を信じて、身代わり洗礼を受けて、救われれば、それは、最高の先祖孝行になるのである。

(エペソ書第2章1節)の霊的意味の「死者」ではない。
そこに使われている言語のネコロス(NEKOROS)と言うのは、本当に肉体の死者を指して言う言葉である。

死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。なぜ、人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。

1、然も、初代の弟子達は、死者のために身代わり洗礼を実行した。
歴史によれば、第2世紀頃までは、それを実行していた事がわかる。
真の教会は
(エペソ書第2章20節)が示す如く、使徒達が行ったように実行する事が正しいのである。

2、身代わり洗礼を行う事によって、霊的に如何に多くの祝福を受けることか。
この事は、聖書に記されてあり、それは、人類に与えられた、死者の救いに対する真の福音である。

3、身代わり洗礼は、教会に与えられた特権であり、常道的祝福である。
(ヨハネ伝第20章23節)あなたがたがゆるす罪は、誰の罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。

(マタイ伝第18章18節)よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。
(マタイ伝第16章18節〜19節)そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
(19節)わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。


信者は、祭司(牧師)の祝福を見失なわない事です。願わくば、全ての祝福が限りなく、豊かに増し加えられます様にお祈り致します。栄光が主イエスの御名にあるように。ハレルヤ アァメン。


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