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第一章 正しい洗礼第二章 洗足式第三章 聖霊のバプテスマ第四章 真の救い第五章 死者の救い第六章 真の神
第七章 神の御名について第八章 聖餐式第九章 安息日第十章 聖霊の働きと権威第十一章 神の教会第十二章 ヨハネの黙示録

   第八章 聖餐式

1  聖餐の奥義(おうぎ) 2  主の死を示す事 3  聖餐の教訓
4  其の継続(けいぞく) 5  聖餐に用いる物とその用法 6  聖餐に与かる心得
聖餐式のパンは主の御肉、葡萄汁はその御血である事。聖餐、又は主の晩餐とも言うが、これは、主イエスが定められた。
主御自身が親しく実行され、祝福して、愛する弟子達に言われた。「私の記念として、これを行え」と命じられた聖典(せいてん)である。
1  聖餐の奥義(おくぎ)
聖典の奥義は、(マタイ伝第26章26節)一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。(27節)また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。(28節)これは、罪の赦しを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。(29節)あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。

(ルカ伝第22章14節)時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒達も共に席についた。(15節)イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越(すぎこし)の食事をしようと、切に望んでいた。
(16節)
あなたがたに言っておくが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。(17節)そして杯(さかずき)を取り、感謝して言われた、「これを取って、互いに分けて飲め。(18節)あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。(19節)またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子達に与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である。わたしを記念するため、このように行いなさい」。(20節)食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。

(コリント前書第11章23節)わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、(24節)感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。(25節)食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

と言われたように、聖餐のパンは主の御体(おからだ)であり、聖餐の葡萄酒は主の御血である。

旧教(カトリック)が言うように、パンそれ自体が主の御肉に化したのではない。新教(プロテスタント)の如く、聖餐のパンを、主の御肉として頂くのではない。
(ヨハネ伝第6章63節)人を活かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。

主が言われたように、パンそれ自体は物質ではあるが聖餐に於けるパンと葡萄汁は、霊の実在(じつざい)においては、キリストの御血、御肉として霊化(れいか)される。
(ヨハネ伝第6章54節)
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。(55節)わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。


キリストが御自分の命を捧(ささ)げて十字架に釘付(くぎづ)けされ、肉をさき、また、血を流されて、それを、われらの霊の飲み物、また、食い物として与えられたのである。これを形に表して食するのが聖餐(せいさん)である。


(ヨハネ伝第6章48節)
わたしは命のパンである。(49節)あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。(50節)しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。(51節)わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。
(52節)そこで、ユダヤ人らが互いに論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。(53節)イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。(54節)わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。

(55節)私の肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。(56節)私の肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。(57節)生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、私を食べる者も私によって生きるであろう。(58節)天から下って来たパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、何時までも生きるであろう」。
(59節)これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられた時に言われたものである。

(60節)
弟子達のうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。誰がそんな事を聞いておられようか」。(61節)しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた。「このことがあなたがたのつまずきになるのか。(62節)それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。」
(63節)人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また、命である。


故に、
(コリント前書第11章27節)には、だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯(おか)すのである。
(コリント前書第10章16節)わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストの体にあずかることではないか。

と教えてあり、如何に聖餐の杯とパンが貴いかは、
(コリント前書第10章、11章)を見ればよくわかる。
2  主の死を示す事
キリストは、唯一の大能の神であり、永遠の父であるが、キリストは肉体となって、この世に来られたのである。そして、万民の罪を許す為に、罪人の身代わりとなり、十字架にかかって死んで下さったのである。神の義を表す為に、その血によって、なだめの供え物となる為である。そして、神の怒(いか)りは、主イエスの死とその血によって、主イエスを信じる者の上を過ぎ去ったのである。

故にわたしたちは見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
(コリント前書第5章7節)
新しい粉(こな)のかたまりになる為に、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越(すぎこし)の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。

主の聖餐は、真に「神が人となり」 暦史的にカルバリーの丘の十字架に於いて、まさしく万民の罪の罰を受けて死なれた事は、歴史的事実を示すものである。
3  聖餐の教訓
(a)御霊の与える一致、聖餐のパンは、キリストの体を象徴し、キリストの体は、キリストの体なる教会を意味する。故にキリストの体は一つであって、「分けられるものではない」。故に聖餐に与(あず)かる者はみな、キリストに在(あ)って、一体であることを思い、つねに謙遜と柔和と寛容とをもち、愛をもって互いに忍び、平和の繋(つなぎ)の中に、勉めて御霊の与える一致を守ることである。
(b)パン種を除くこと過越の祝の時のパンは、パン種なきパンを用いた。故に聖餐は真実の種なしパンを用いて祝うべきであって、一切の種を排除(はいじょ)して聖餐に与(あず)からなければならない。聖書には、以下の7つのパン種の事を教えているのである。
(1)誇りのパン種 (2)古きパン種 (3)悪のパン種 (4)よこしまのパン種
(コリント前書5章6節)あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。(7節)新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、既に殺されたのだ。(8節)ゆえに、わたしたちは、古いパン種の入っていない純粋で真実のパンをもって、祭りをしようではないか。
(5)パリサイ人のパン種 (6)サドカイ人のパン種
(マタイ伝第16章11節)わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。(12節)そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種の事ではなく、パリサイ人とサドカイ人との教えの事であると悟った。
(7) ヘロデのパン種
(マルコ伝第8章15節)そのとき、イエスは彼らを戒(いましめ)て、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。
4  聖餐式の継続(けいぞく)
 主の御再臨の日まで、聖餐は継続すべきものである。
(コリント前書第11章21節)食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。
5  聖餐に用いる物とその用法
 聖餐に用いる物は種なしパン一箇と葡萄汁だけである。
司会者は、主が為されたように、先ずパンを祝して、聖餐を受ける信徒の数に応じてパンを裂(さ)いて、信徒に与え、次に葡萄汁を祝して、これを信徒に分け与える。
6  聖餐に与かる心得
 パンを自ら裂いては、主が十字架上において、槍(やり)をもって脇腹を刺して殺されたのではなく、罪を贖(あがな)う為に命を与える、自ら呪(のろ)いを受けて命を捨てられたのである。
われらは深く主の御愛を悟り、大感謝の中に又、其の十字架の死の御苦しみを偲(しの)んで聖餐に与かるべきである。
これが、過越の祝いのパンに苦菜(にがな)をそえて食せよと言う意味である。イエス様の死の苦しみを忍んで、すべてのパン種を除き、堅く信仰に立って、忍耐強く、歩みましょう。主の恵みと平安が常に、愛する兄弟姉妹と共にあります様に。栄光主にあれ。ハレルヤアーメン。

  聖餐式での体験

 聖餐式は、パンをキリストの体と信じ、ぶどう酒を、主の御血と信じて行う、霊的な儀式である。
私にとって最初の聖餐式でのこと、初めての経験で人数も多いことで、パンは一つでは足りないかも知れないから、念のために、予備として、二つ造ったことが、私の間違いであった。
のち悟らん、サタンにすきをあたえてしまった。「イエス・キリストの御名によって、聖餐式を行います」と宣言したとたんに、悪魔の軍勢が押し寄せてきたのである。二つ目のパンを盗みに、大軍で威嚇してきたのである。

或る姉妹がサタンに、憑かれて、頭のてっぺんから、黄色い声を出して、この世の者とは思えない声で、会衆の前で踊り出した。私はその時、両手を挙げて祈っていた。すると、天から二つの器が下るのを見たのである。御霊に感じて、それは、パンとぶどう酒であると感じた。次に私の上に天から力が与えられて、聖餐式の邪魔をして目の前で踊っている姉妹を、異言で叱(しか)った。そのとたんに、この姉妹から、サタンが追い出されて、姉妹は我に返って、泣き出したのである。

悪魔の軍勢は、がやがや騒いで、何を言っているのかは、分らないが、すきさえあれば、パンを盗もうと、騒いでいる。私は祈りながら、パンを裂いて、会衆に配った。そのあとぶどう汁を杯についで、配ったとたん、悪魔の軍勢は、蜘蛛(くも)の子を散らすように、退散したのである。その時目の前がパッと明るくなり、悪魔の軍勢に勝利した事を、イエス様に感謝したのである。聖餐式が終わって、初めからあった事を証(あかし)して、サタンに対して、主イエスの御血が、如何に絶大な権威であるかを、改めて学んだのである。

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