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第一章 正しい洗礼第二章 洗足式第三章 聖霊のバプテスマ第四章 真の救い第五章 死者の救い第六章 真の神
第七章 神の御名について第八章 聖餐式第九章 安息日第十章 聖霊の働きと権威第十一章 神の教会第十二章 ヨハネの黙示録

    第四章 正しい洗礼

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1 不正な洗礼

2 正しい洗礼

3 初代教会で行われた洗礼

教会史に見る洗礼の真偽

教会史で見る教理と洗礼

 


『バプテスマ』 洗礼はイエスの名によって行うべきである。 (エペソ書第45節)
初代の教会に於いては、「真の全たき洗礼」の型は、ただ一つしかなかった。然し、第2世紀以降のキリスト教から、その型はくずれて現在に至っているのである。「洗礼はただの形式だから、それはどうでもよい」と。
本当にそうでしょうか?
(マルコ伝第1616節)「信じてバプテスマを受ける者は救われる」
洗礼は、救いに関する重要な条件である。軽々しく考えたり、とりあつかうべき事ではない。正しい洗礼とはどう行うべきであるかを、悟るべきである。

1 不正な洗礼

現在のキリスト教会で行われている洗礼には、滴礼(てきれい)と、浸礼(しんれい)の二種類がある。
聖書の命ずる洗礼は、浸礼であって、滴礼は非聖書的である。
浸礼即ち、全身を水に沈めて施す洗礼は、聖書的ではあるが、問題は、誰の名で洗礼を施したかと言うことである。

主イエスは弟子達に対して、「父と子と聖霊との名によってバプテスマを施せ」(マタイ伝第28章18節〜20節)と天地の権威によって、命じられたのである。
にもかかわらず、第三世紀以降のキリスト教会は殆どが、その名を用いず、ただ「父と子と聖霊の名によって、バプテスマを施す」と言うのみであって、父と子と聖霊との名とは、唯一の神の名であって、父と言い、子と言い、聖霊と言うのは、代名詞または、称号であって、其の名ではない。
故に其の名を称えずして施す洗礼は、聖書通りの洗礼ではないのである。それは洗礼の意味をなさず、全部無効である。故に全き救いに与かる為には、其の名を称えて行なわなければならない。

2 正しい洗礼

  真の洗礼は、イエス・キリストの名を称えて行う事。

(1)其の名とは何か。

 其の名とは、英語の聖書で見ればよく分かるように、其の名とは複数ではなくて単数である。故に、「父と子と聖霊」と言う名は同一の名でなければならないのである。勿論、子の名はイエスであると判っている。然し父の名は何であるか。
主は言われた、「わたしは父の名によって来たのに」(ヨハネ伝第543節)と言い、また、最後の祈りの中では、「聖なる父」よ、わたしに賜った御名によって彼らを守って下さい。

(ヨハネ伝第1711節〜12節)「あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました」とあるが故に、イエスとは間違いなく、父の名である。
聖霊の名は?
(ヨハネ伝第1426節)「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は」とある故に、「聖霊の名はイエス」である。
「父と、子と、聖霊との名」と言うその名は、即ち、「イエス名」の事である。
イエスとは真の神の御名であって、この御名によってなされる洗礼のみが、真の正しい、『バプテスマ』救いの洗礼である。
 

人は神の形に造られた

洗礼式

真の正しいバプテスマ(洗礼)は、イエス・キリストの名によって、行なわれなければならない。
それが行なわれたのは、最初に、エルサレムで三千人の人々が、バプテスマを受けて、聖霊を受けた
(使徒行伝第238節)とあり、そして「水と霊」の救いに入れられた(ヨハネ伝第35節)と書いてある。
後は、
(使徒行伝第816節)(使徒行伝第1048節、第195節)に記してある。また、(ロマ書第6章1節〜9節)の通りである。(参照)

洗礼式の様子(アルバム)

   

3 初代教会で行われたバプテスマ洗礼

初代教会に於いては、初めから「イエスの名」によってバプテスマ(洗礼)を施したのである。今、初代教会の洗礼の暦史とも言うべき、使徒行伝を検証してみよう。
最初に行なわれた洗礼式は。


(a) エルサレムに於いて

 第一に、初めて聖霊降臨のあった、ペンテコステの朝の事、三千人余の、ユダヤ人の改心者達に、使徒ペテロは「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けよ」と命じたのであった。

(使徒行伝第2章36節)だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
(37節)人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒達に、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
(38節)すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
(39節)この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
(40節)ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲がった時代から救われよ」と言って勧めた。
(41節)そこで、彼の勧めの言葉を受け入れた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
(42節)そして一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていた。


(b) サマリヤに於いて

 伝道者ピリポが、サマリヤ伝道を開始した時に、主イエス・キリストを信じたサマリヤの人々は、「主イエスの名によってバプテスマを受けた。」

(使徒行伝第8章12節)ところが、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた。
(13節)シモン自身も信じて、バプテスマを受け、それから、引きつづきピリポについて行った。そして、数々のしるしやめざましい奇跡が行なわれるのを見て驚いていた。
(14節)
エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。

(15節)ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊をうけるようにと、彼らのために祈った。
(16節)それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。
(17節)
そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。


これで、サマリヤの人々も、「水と霊」とのバプテスマを受けて、全き救いに与ったのである。


(c) コルネリオ家に於いて

 使徒ペテロが、異邦人であるコルネリオ家に招かれた時、聖霊を受けた人達に「イエス・キリストの名によってバプテスマを授けられることを命じた」。

(使徒行伝第10章44節)ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。
(45節)割礼を受けていた信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。
(46節)それは、彼らが異言を語って神を讃美しているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出だした、
(47節)
「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。
(48節)こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、なお数日のあいだ滞在してもらった。


(d) エペソに於いて

使徒パウロが、奥地をとおってエペソに来た時、その信者達が「イエスの御名」によって洗礼を受けていないので、パウロは「主イエスの名」によってバプテスマを受けなおさせた。

(使徒行伝第19章1節)アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、(2節)彼らに「あなたがたは、信仰に入った時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。
(3節)「では、だれの名によってバプテスマをうけたのか」と彼が聞くと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマをうけました」と答えた。
(4節)そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分の後に来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。
(5節)
人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。
(6節)そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らに下り、それから彼らは異言を語ったり、予言をしたりし出した。
(7節)その人たちはみんなで十二人ほどであった。


(e) 使徒パウロの場合は

パウロ自身もまた「主の名」によってバプテスマを受けたのである。
そのように、初代教会に於いては、みな「イエス・キリストの御名」によってバプテスマを受けたのであって、救いに与かるのに様々なバプテスマがあったのではなく、「バプテスマは一つ」真に、「主イエス・キリストの御名による、バプテスマ」のみであった。


使徒行伝第第2213節)わたしのところにきて、そばに立ち、「兄弟サウロよ、見えるようになりなさい」と言った。するとその瞬間に、わたしの目が開いて、彼の姿が見えた。
(14節)彼は言った、「わたしたちの先祖の神が、あなたを選んでみ旨を知らせ、かの義人を見させ、その口から声をお聞かせになった。
(15節)それはあなたが、その見聞きした事につき、すべての人に対して、彼の証人になるためである。
(16節)そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、御名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落としなさい」。


(f) 聖書に従う事は当然な事である

バプテスマの意義を考えて見ても「イエスの名」によってバプテスマを施すことは当然なことである。

(1)洗礼が、罪の赦しであるならば、(使徒行伝第238節)、罪の赦しは「イエスの名」による事、

(ルカ伝第2447)その名によって罪の赦しを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。(48節)あなたがたは、これらの事の証人である。

(ヨハネ第一の書第2章12節)御名のゆえに、あなたがたの多くの罪が赦されたからである。

故に、イエスの名を称えて、洗礼を行わないと、その意味を為さない。

(2)洗礼が罪の潔めであるなら、罪の潔めの血をもたらすために、イエスの名を称えるべきである。

(ヨハネ第一の書第17節)御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
(ヨハネ第一の書第57節)あかしするものが、三つある。(8節)
御霊と水と血とである。この三つのものは一致する。
(コリント前書第611節)あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。


(3)洗礼がもしイエス・キリストに合うための死と葬りを意味するならば、
(ロマ書第6章1節)わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
(2節)断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
(3節)それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスに与かるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
(4節)すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しい命に生きるためである。
(5節)もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活にもひとしくなるであろう。
(6節)わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪の体が滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
(7節)それは、すでに死んだ者は、罪から開放されているからである。
(8節)もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きる事を信じる。
(9節)キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬ事が無く、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
(10節)なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
(11節)このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
(12節)だから、あなたがたの死ぬべき体を罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせる事をせず、
(13節)また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。
(14節)なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
(15節)それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
(16節)あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、誰かの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義に至る従順の僕ともなるのである。

(コロサイ書第2章12節)あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。


信者はイエス・キリストと共に死に、葬られると言う事は、その全身が、水の中に浸たり、全身を洗い潔められると言う事であるから、イエス・キリストの御名を称えて、洗礼を行なわなければならないのである。

(4)(ガラテヤ書第3章27節)キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
(使徒行伝第1514節) 神が初めに異邦人たちを顧みみて、その中から御名を負う民を選び出された次第は、シメオンがすでに説明した。

イエスの御名を称えなければ、バプテスマ、洗礼の効果、罪の赦はないのである。

(5)洗礼を受けて救われると言うならば、
(マルコ伝第1616節)信じてバプテスマを、受ける者は救われる、しかし、不信仰の者は罪に定められる。
(使徒行伝第412節)わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである。
 
とあるから、救い主イエスの御名を称えずしては、救われないのである。

このように、使徒時代は、どこでも、だれでも、イエス・キリストの名によって、バプテスマ『洗礼』を施したのである。(使徒行伝第19章2節〜7節)。「正しい洗礼」とはイエスの名によって、為されるべき事が明白である。


 教会史に見る洗礼の真偽

教会史によると、使徒達の教会が紀元33年〜100年まで続き、以後、教会は迫害下にあって、「紀元156年」から霊媒者モンタナスが三名の神を見たと言って、モンタナス大運動が起こり、「紀元200年」になって、トルテリアンが、「三位一体」なる、「学説語」を作リ出した。

「紀元325年」(ニカヤコンスタンチン)で最初の「カトリック会議」が開かれ、「三位一体」を、カトリック教会の教理として採用され、「父と子と聖霊の名によってと、三位一体の滴礼の洗礼」が行われたのである。
滴礼とは、水の中には入らずに、コップに水を入れて聖水と称し、額(ひたい)、に水をつけるだけで、洗礼を授けたことにしたのである。

実は「三位一体」なる言葉も、「滴礼」なる言葉も聖書には何処にも記されて無いのである。
洗礼は、全身を水に沈めて、行われる事が正しいのであって、しかも、イエスの名による浸礼の洗礼でなければ、聖書の命じる正しい洗礼とは言えない。

ちなみに、三位一体の滴礼から、三位一体の浸礼までは、実に、1300年もかかったのである。
また、三位一体の浸礼から、主イエス・キリストの名による浸礼までは、281年を要し、聖書どおりの真の洗礼が行われるまでには、実に、1580年間かかったのである。


 教会史で見る教理と洗礼

紀元1517年 マルチンルーテルがカトリックから出て、宗教改革を行い、信仰による義を説き、後にルーテル教会を創立となる。
紀元1648年までが新教の教会である。
紀元1533年 ジョンカルビンがスイスに於いて聖餐による光を説き長老派の教会を創立した。
紀元1555年 ジョンノックスがスコットランドで礼拝の自由を得。
紀元1580年 ラビットブラウンが、政治から離れ。ここまで、カトリック教会と同じ、滴礼の洗礼式が行なわれた。
紀元1609年 ジョンスミスがオランダで浸礼派の改革を行う。
紀元1639年 ジャーウイリアムがアメリカでバプテスト派の教会を創立する。
紀元1739年 ジョンウエスレが潔め運動を起こす。
紀元1790 イギリスで潔め派のメソジスト教会が起こる。
紀元1874年 ホーリネス運動、即ち、聖霊運動が起こり、ホーリネス派の教会がおこる。
紀元1881年 シンプソンが神癒を信じるとし、主が再び来られる事を説き、アライアンス派の教会が起こる。
紀元1890年 アレキサンダカンベルが罪の赦しによる救いのバプテスマ、即ち、主イエス・キリストの御名による浸礼、聖書通りの正しい洗礼式が実現したのである。(参照:ラルネデの教会史)
紀元1900年以降、再び、使徒教会は復興し、聖書通りの真の洗礼が行われるようになったのである。其の間実に、1580年間を要したのである。


(ヨハネの黙示録第2章11節)耳のある者は、御霊が諸教会に言う事を聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない。

(ヨハネの黙示録第22章12節)「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
(13節)わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。
(14節)いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。

(ヨハネの黙示録第22章18節)この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれいる災害を加えられる。
(19節)また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれている命の木と聖なる都から、とり除かれる。
(20節)これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アーメン、主イエスよ、きたりませ。


以上、教会史で見る教理と洗礼は、ラルネデの教会史を参考に使った。

この黙示録は、人類の最後にたいする大予言であり、如何なる弁解も言い逃れも許されない、天地万物の最後を警告して、人間一人一人の来世、現世の救いと、滅びを教えている。
真の救いを求めて下さい。願わくば、読者の皆さんが、1日も早く聖書に帰って、聖書通りの全き救いに、与かられる事を心から祈るものである。
栄光主にあれ ハレルヤ アーメン。

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