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第一章 正しい洗礼第二章 洗足式第三章 聖霊のバプテスマ第四章 真の救い第五章 死者の救い第六章 真の神
第七章 神の御名について第八章 聖餐式第九章 安息日第十章 聖霊の働きと権威第十一章 神の教会第十二章 ヨハネの黙示録

1 真の神の聖名はイエス 2 神の聖名の重要性 3 神の聖名 4 聖書の立証
5 聖霊の名は 6 明白なる理由 7 イエスの聖名の権威 8 聖名のため
 
1 真の神の聖名は「 イエス」 である
 
(使徒行伝第17章24節)この世界とその中にある万物とを造った神は、天地の主である。
使徒パウロの言う「天地の主」とは神をさすのであって、主イエスが教えられた祈りの中にある(マタイ伝第6章9節)『天にいますわれらの父』である。

2 神の聖名の重要性
我等が「神の聖名」と言うとき、神の側からは実に重大な事であって、些細(ささい)な事ではないと言う事を以下の聖書の引照句は立証している。

(1) 
(申命記第28章58節)もしあなたが、この書物にしるされているこの律法のすべての言葉を守り行わず、あなたの神、主というこの栄えある恐るべき名を恐れないならば、(59節)主はあなたとその子孫の上に激しい災いを下されるであろう。その災いはきびしく、かつ久しく、その病気は重く、かつ久しいであろう。

(2) 
(出エジプト記第23章13節) わたしが、あなたがたに言ったすべての事に心を留めなさい。他の神々の名を唱えてはならない。また、これをあなたのくちびるから聞こえさせてはならない。

(3) 
(イザヤ書第12章4節)その日、あなたがたは言う、
「主に感謝せよ。その御名を呼べ。その御業をもろもろの民の中につたえよ。
その御名のあがむべき事を語りつげよ。」


(4) 
(エレミヤ書第23章23節)「主は言われる、わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか。(24節)主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。(25節)わが名によって偽りを預言する預言者たちが、『わたしは夢を見た、わたしは夢を見た』と言うのを聞いた。(26節)偽りを予言する預言者たちの心に、いつまで偽りがあるのであるか。彼らはその心の欺きを預言する。(27節)彼らはその先祖がバアルに従ってわが名を忘れたように、互いに夢を語って、わたしの民にわが名を忘れさせようとする。

(5) 
(詩篇第91篇14節)彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
(15節)彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
(16節)わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救いを彼に示すであろう。


(6) 
(出エジプト記第23章20節)見よ、わたしは使いをあなたの前につかわし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所に導かせるであろう。
(21節)あなたはその前に慎み、その言葉に聞き従い、彼にそむいてはならない。わたしの名が彼のうちにあるゆえに、彼はあなたがたのとがをゆるさないであろう。


神は、彼の契約の使いに関して語られたとき、神が、わたしの名は彼の中に在るのだと言われた。
神が、わたしたちに彼の名を知り、それを宣べ伝え、また、忘れないように、しかもそれを畏(おそれ)るようにと要求されたのみならず、わが名(神の御名)が彼の中に在るからと言われた以上、その名が何であるかを見出す事は、確かに我等の義務であるが、契約の使いと言えば間違いなく主イエス・キリスト(キリストとは救い主の意味であり、イエスとは救主の名)であることは、如何なる聖書学者も否定の出来ない事実である。

(マラキ書第3章1節)「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたの求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。

(コリント前書第10章4節)みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。(5節)しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。

(6節)これらの出来事は、私達に対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。(7節)だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って躍り戯(おどりたわむ)れた」と書いてある。(8節)また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
(9節)また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、ヘビに殺された。

(詩篇第2章12節)その足に口づけせよ。さもないと主は怒って、あなたがたを道で滅ぼされるであろう。その憤(いきどお)りがすみやかに燃えるからである。すべて主に寄り頼む者はさいわいである。

我らは、真の神の聖名は「イエス」であると断言しても間違いはない事を確信するのである。この事が事実なる事を一緒に聖書に学びたい。

3 神の聖名
神は、聖書の中で、色々な名称を用いて、御自身を顕現された。旧約聖書の文語訳には、神の名を「エホバ」と呼び、固有名詞のように6823回も神御自身が用いられた。その他の神聖なる名と結合すると、その2倍以上にも用いられている。

(1) この「エホバ」と言う名は、ユダヤ人にとっては、いとも崇高なる名として崇められた。
(イザヤ書第12章4節)その日、あなたがたは言う、「主に感謝せよ。その御名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中に伝えよ。」、と要求されていたのである。

(2) また、その「エホバ」と言う名は、
(エレミヤ記第23章全体)を通して、神によって用いられた名である。この章は、神が偽りの預言者を威嚇(いかく)している所であって、この名は、バアルの神々に迷いこれを慕う事を止めた時、この名を忘れていた人達に知らされたのであった。
(エレミヤ記第23章37節)あなたは預言者にこう言わなければならない、『主はあなたになんと答えられましたか』、『主はなんと言われましたか』と。

(3) 
(出エジプト記第6章3節)わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主と言う名では、自分を彼らに知らせなかった。(4節)わたしはまた「カナンの地」、すなわち彼らが寄留したその寄留の地を、彼らに与えるという契約を彼らと立てた。
この名は又、モーセとイスラエルの子孫とに契約をなされた時の名であって、エホバとは「有りて在る者」との意味である。

(出エジプト記第23章20節)
見よ、わたしは使いをあなたの前につかわし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所に導かせるであろう。

何故、神は御自分の名を契約の使いの中に秘められたのか。それは、やがて神が唯イスラエルの一民族のためだけでなく、万民をあがなうためで、この罰されるベき世に御自身を顕現される時、即ち神が新しく更によき契約の仲保者としての個人的地位と、神の謙譲(けんじょう)とを兼ねた一つの至上の仲保の名を以って来られる事を望まれたからである。それが即ち、契約の使いの中にある名であって、神はこの契約の使いの名「イエス」すなわち「エホバ救い」と言う光栄ある名を用いられるようになされたのである。

(4) 「イエス」とは、ヘブル語の”ヨシュア”のギリシャ語であって、「エホバ(救い)」と言う意味である。
(民数記第13章16節)には、モーセがヌンの子ホセアをヨシアに変えたと言う歴然たる事実がある。ホセアとは「救い」との意味であって、モーセはイスラエルの国民的指導者であり、また、預言者であって、ホセアを偉大なる救い主の型として認識し、これに契約の名”エホバ”を加えて、”ヨシュア”と言うのである。
故に”ヨシュア”とは「エホバ救い」との意味であり、これをギリシャ語では「イエス」と言うのである。

しかるに、ヨシュアまたは「イエス」と言う名は、慈愛に富む両親によって、よくユダヤ人の子供達に命名されたので、我等の主イエスの名もまた一般的名であるかの如く思いやすいが、誰でも知っているように、我等の主の「イエス」と言う名は、天使によって言われた名であって、
(マタイ伝第1章21節)「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」
と告知された唯一の名「イエスの名」である事を知らなければならない。故に、「イエス」と言う名は、救い主だけが持つ名である。


(コリント後書第11章4節)
もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受け入れた事のない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。

(コリント前書第15章3節)
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、私自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、(4節)そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
である。   
4 聖書の立証
神の名は、キリストの中に在り、『キリスト』救い主と言う名は『イエス』であるが、イエスが果たして神の名であるかどうか、即ち父の名であるか否か、更に聖書によって検証してみましょう。
(1) 天の制定
預言者ゼカリヤは、キリストのエルサレムに凱旋し入城する事に関して、
(ゼカリヤ伝第9章9節)シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。と予言した。
主がこの予言に応じてエルサレムに入城する時、主の弟子達の大郡衆は
(ルカ伝第2章14節)「いと高きところでは神に栄光があるように」
(ルカ伝第19章37節)大勢の弟子達はみな喜んで、彼らが見たすべての力ある御業について、声高らかに神を讃美して言いはじめた、
(38節)「主の御名によってきたる王に、祝福あれ、天には平和、いと高きところには栄光あれ」。
(39節)群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。(40節)答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。
この「主の名」とは旧約聖書には「エホバの名」とあるのを、新約聖書では「主の名」と訳されている。
神の御名である事は間違いなく、神の名を以って来られるとあり、その名イエスは、正に「神の名」である。故にパリサイ人らは、これは神への冒涜(ぼうとく)であるとして、主に迫って言った。
師よ、あなたの弟子達を戒めて下さいと言った。然しこの事は、時の宗教家達が、欲っしようと、欲っしまいとにかかわらず、天に於いては既定の事実であった。「わたしはあなたがたに告げる、この人々が黙ったら、路傍の石が叫ぶであろう。」と答えられたのである。
     
(2) 聖書の註解
同じ預言者は、またキリストの再臨に言及して、(ゼカリヤ書第14章4節)その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。そしてオリブ山は、非常に広い一つの谷によって、東から西に二つに裂(さ)け、その山の半ばは北に、半ばは南に移り、(5節)わが山の谷はふさがれる。裂けた山の谷が、そのかたわらに接触するからである。そして、あなたがたはユダの王ウジヤの世に、地震を避けて逃げたように逃げる。こうして、あなたがたの神、主はこられる、もろもろの聖者と共にこられる。

(9節)
主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。
と預言した。

再臨と言えば、エホバが来られるのではなく、御昇天されたイエス・キリストが再びこの地上に来られる事であり、また千年王国時代にエホバが王となられるのではなく、全地の王の王となられる方は、主イエス・キリストであるから、ここの、「エホバ」とあるのは、主イエスの事であって、「エホバ」即ち「イエス」であり、「イエス」と言う名は、真の神の名である。
(3) 主イエスの予言
主のエルサレム入城の時「主の名によってきたる王」と言って主を歓迎した為に、時の宗教家達から非難された弟子達を擁護(ようご)された主は、その二日後、御再臨を連想して次のように宣言されたのである。
(マタイ伝第23章38節)見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。(39節)わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえ達が言う時までは、今後ふたたび、わたしに合う事はないであろう」。
と言われたことは、主の最後の公約であったのである。この言葉の素晴らしい意味が、真理が、何処でもわかる時が来る。その日、天には平和と言う事が、地上では実現となる。主も又、御自らの名が、神の名であることを承知しておられた事である。
(4) キリストの降臨
預言者イザヤは、キリストが再び地上にこられる事を予言して、
(イザヤ書第30章27節)見よ、主の名は遠い所から燃える怒りと、立ち上がる濃い煙をもって来る。そのくちびるは憤(いきどお)りで満ち、その舌は焼きつくす火の如く

と、言っているのか、主イエス・キリストは、御自身をエホバと言う名に当てはめた為に、ユダヤ人は石をもって彼を殺そうとした。
(ヨハネ伝8章58節)イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。

(出エジプト記第3章14節)
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、私をあなたがたのところへつかわされました』と」。(15節)神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへ遣(つか)わされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。
(5) 真 と 偽
(エレミヤ記第23章5節)主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起こす日がくる。
(6節)その日ユダは救(すくい)を得(え)、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。

これは、キリストの事を「エホバ」我らの義と称えられるべしとあって、その事は偽りの預言者を威嚇(いかく)して言われたのである。

(ヨハネ伝第5章43節)
わたしは父の名によってきたのに、あなたがたは私を受け入れない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受け入れるのであろう。

と主イエスは譴責(けんせき)されたのである。これらの事は単なる一致ではない。

(a) 偽りのキリストは、彼自らの名によって来るであろう。
黙示禄第13章18節を見るとその名の数字は「六百六十六」となっている。六は古き創造の数字である。

(ペテロ前書第3章20節)これらの霊というのは、むかし「ノアの箱舟」が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに、 従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。
(21節)この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、体の汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。

(ロマ書第6章4節)
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しい命に生きるためである。
大患難(かんなん)時代の時に
(a) 偽キリストの名を「彼らの額」に受ける。
(黙示禄第13章16節)また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手、あるいは額に刻印を押させ、(17節)この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。(18節)ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。

(b) 「小羊なるキリスト」に従う者は、彼らの額に「小羊の名及び小羊の父の名」が書かれていた
(黙示禄第14章1節)
そして新天新地に於いて、神と小羊との御座に仕えている僕べ達は、その御顔を見る、その御名は彼らの額にある。

(黙示禄第22章4節)
御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。

その御顔と言い、その御名と言うのは、両方とも単数である。それで我等は、
(ヨハネ伝第5章43節)わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。
(黙示禄第14章1節)なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。
と、同じ事が言われているのである。
(6) わが名をもて称えられる異邦人
使徒行伝第15章14節に記されているエルサレム会議に於いて、使徒ペテロは「神が初めに異邦人達を顧みて、その中から御名を負う民を選び出された次第を、使徒行伝第10章に記されている、コルネリオ家における人々の事で証言した。彼らは皆、聖霊を受け、洗礼を受けた。時の議長ヤコブは、割礼を受けていなくても、「水と霊」のバプテスマを受ければ、異邦人でも救われる事実を、ペテロによって立証された事を正式に承認したのである。

又、神の言葉
(アモス書第9章11節〜12節)の預言を引用して言った。
「わが名をもって呼ばれるすべての国民を所有するためである」とこの事をなされる主は言われる。
人の救いはすべて、神ご自身が直接約束されたのである。
(マタイ伝第12章21節)異邦人は彼の名に望みを置くであろう。
と記されてある。彼の名とはイエス御自身である故に、旧約聖書のエホバとは新約聖書のイエスであって、真にイエスとは唯一の真の神の名であることは間違いのない事実である。
聖書は聖書が説く事をここに証明している。

(7) 主の立証
最後に、主の名とは、主イエスご自身である、私は父の名によって来たと証言された事であり、間違いなく、断言し得る唯一の事は、主のこの証言である。
(ヨハネ伝第5章43節)私は父の名によってきたのに、あなたがたは私を受け入れない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
ちなみに、
(ヨハネ伝第1章10節)彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。(11節)彼は自分の所に来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった。
とあり、
(ヨハネ伝第17章6節)わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。(中略)そして、彼らはあなたの言葉を守りました。
(同11節)聖なる父よ、私に賜わった御名によって彼らを守って下さい。

また、
(12節)あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。
と「あなたの御名」「わたしに賜わった御名」とは、父なる神の名であって、いつ、イエスは父の名を賜ったのか。いつ、その命令は天使によって、与えられたのか?

「その名をイエスと名づけなさい」とは、最初はマリヤに
(ルカ伝第1章31節)見よ。あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。
最後はヨセフによって
(マタイ伝第1章21節)その名をイエスと名づけなさい。
このようにして、「父の名」である事は間違いないのである。
5 聖霊の名は
父の名はわかったが、それでは聖霊の名はどうでしょうか。
父の名はキリストに在りと知った以上、もし、聖霊の名が他にあったとすれば、それこそわれらは驚かざるを得ない。

聖書には聖霊の名とはないが、
(ヨハネ伝第14章26節)「しかし、助け主、すなわち、父が私の名によってつかわされる聖霊は」 とあり、また、(ヨハネ伝第15章26節)「わたしが父のみもとから、あなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時」、とあり、また、(コリント後書第3章17節)「主は霊である。」 とあるから、御霊に名をつけるならば、イエスの他に在り得ないのである。

最後に、
(ヨハネ伝第14章20節)その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、わかるであろう。

「その日には」とは、聖霊降臨の時、即ち、聖霊を受ける時に、次の事が判ると言うことである。

(1)「わたしが父に居り」と言う時、そこに父に関する教理がある。    
(2)「あなたがたが私に居り」と言う時、そこに、子に関する教理がある。     
(3)「私があなたがたに居る」と言う時、そこに聖霊に関する教理がある。
この奥義は大きな領域がある事の証拠である。しかし、わたしたちはそれを探索する必要はない。何故ならば、もし、わたしたちが、父の事を思う時、そこに、キリストが居られる。
(ヨハネ伝第14章11節)「わたしが父におり」、そして、「父がわたしに居られる事を信じなさい。もし、それが信じられないならば、業(わざ)そのものによって信じなさい」。とある。

また、もし、わたしたちが子に関して思う時は、わたしたちは「キリストに居る」。この時、キリストは御霊となって、現実に、わたしたちの中に居られると言う事実である。
私達は聖霊を受けているからである。私は道であり、真理であり、生命である。それは、すべての道を貫いて私は在るのである。故に、すべての神聖なる名は、皆キリストの中に在るのである。故に主は言われる。
あなたがたは出て行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、バプテスマを施せと、父と子と聖霊との名と言うその名は単数である故に、父の名も、子の名も、聖霊の名も、皆、同一の名である。それは、即ち、「イエス」と言う名である。
「神の暦史は歴然として、唯一の名」である事を、「聖書が証明しているのである」。
人類の暦史は、確かに、父なる神の時代、子なる神の時代、そして現在は、聖霊の時代であって、それ故に、「父と子と聖霊」は、即ち、神の暦史であり、暦史の中の、「唯一」の神の名である事を明確にしているのである。
6 明白なる理由
以上の聖句の他に、聖句に関連して、何故神の名はキリストの中に、在らねばならないのかという明白なる理由がある。

(1) 神の子は、その受けられた、もろもろの名に勝る名を持っておられる。

(ピリピ書第2章9節)それ故に、神は彼を高く引き上げ、すべての名に勝る名を彼に賜わった。
(ヘブル書第1章4節)御子は、その受け継がれた名が、御使い達の名に勝っているので、彼らよりも優れた者となられた。
とあり、受け継がれた名とは、勿論「イエス」の名である。子が父の名を受け継ぐ事は当然の事である。

(2) 神の名は古き宮殿にあった

(列王紀上第8章29節)あなたが『私の名をそこに置く』と言われた所、すなわち、この宮に向かって夜昼あなたの目をお開きください。僕(しもべ)がこの所に向かって祈る祈りをお聞き下さい。
(ヨハネ伝第2章19節)イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起こすであろう」。
とイエスが言われた新しき宮でなければならない。即ち、新しい宮なるイエス御自身の上に。

(3) エホバの名は、契約の箱にあった

(サムエル後書第6章2節)そしてダビデは立って、自分と共にいるすべての民と共にバアレ・ユダへ行って、神の箱をそこからかき上ろうとした。この箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名をもって呼ばれている。
すなわち、ユダのキアテ・ヤリムに上り、神の箱をそこからかき上ろうとした。この箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名をもって呼ばれている。
(歴代志上第13章6節)そしてダビデとすべてのイスラエルはバアラすなわちユダのキリアテ・ヤリムに上り、ケルビムの上に座して居られる主の名をもって呼ばれている神の箱をそこからかき上ろうと、
神の箱はエホバの名をもって呼ばれた。これが、其処に「エホバ」の栄光の止まった所以(ゆえん)である。現在では、誰が契約の箱であるか。「何処に神の栄光が止まるか」。


(ヨハネ伝第14章11節)
わたしが父に居り、父が私に居られることを信じなさい。
(コロサイ書第2章9節)
キリストにこそ、満ちみちている一切の神の徳が、形を取って宿っており、(コリント後書第4章6節)「闇の中から光が照り出でよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、私たちの心を照らして下さったのである。


契約に含まれているすべての物を、現す所のものは、現在に於いては唯、イエスの中にのみ見出されるのである。

(4) われらが「イエスの名」によって洗礼を行う理由はそこにあるのである。教会はキリストの花嫁であるからである。

(コリント後書第11章2節)
わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、清い乙女として、ただひとりの男子キリストにささげる為に、婚約させたのである。 
と使徒パウロは、この書簡の中で、どの花嫁も、彼女の夫の名前を持つが、これは、彼女の夫の父の名前である。故に、イエスとは、父の名であるべきである。

(5) 集合的には、わたしたちは、キリストの花嫁である。個人的には、キリストの子供である。主イエスは言われた、
(ヘブル書第2章13節)「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子らとは」と言われた。
アダムは古き創造の父であった如く、イエスは新しき創造の父である。
神の子なるアダムは我等に肉の命を与える、自然的な父であったが、神の独り子であるイエスは
(ヨハネ伝第3章16節)生命を与える霊の終りのアダムであって、(コリント前書第15章45節)聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてある通りである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。
そのアダムは、われらに永遠の命を与える故に、「永遠の父」
(イザヤ書第九章6節)と記されている如く、われらの霊の父である。エホバとは、永遠の神である「我は有る」と言う名である
(イザヤ書第40章28節)
あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主は永遠(とこしえ)の神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。

そして我等の永遠の父なるイエスは、これと全く同じ永遠の名を持つ。それは「エホバ(救い)」と言う名をもつ「イエス」である。
7 イエスの聖名の権威
イエスは神の聖名である故に、「天においても、地においても、一切の権威を授けられた」(マタイ伝第28章18節)と、主イエスは、天地の権威を宣言されたのである。イエスの名に権威があり、我らがより頼みて、救わるべき聖名である。旧約聖書には、神御自身が唯一の救い主である事を示された。故に我等はその名イエスの御名を信じて罪の赦しを受けるのである。
(使徒行伝第16章31節)「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。
イエスの名に権威がある事を聖書が証明している。


(1) 罪の赦しのバプテスマ
これは、イエスの名によってなされる。
(使徒行伝第2章38節)すると、ペテロが答えた、悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪の赦しを得る為に、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。

また、
(ルカ伝第24章47節)そして、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる、とある。
今こそ、インターネットの時代に、ホームページによって、この大使命を、実現出来るときである。
(2) イエスの御名によって奇蹟が行われる
(使徒行伝第3章6節)ペテロが言った、「金銀は私には無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。
(同第4章30節)
そして御手を伸ばして癒しをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい。
(マルコ伝第16章17節)
信じる者には、このような徴(しるし)が伴う。即ち、彼らは私の名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、(18節)へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、癒される」。
(3) イエス・キリスト聖名によって、悪霊を追い出す事
(使徒行伝第10章38節)神はナザレの「イエス」に聖霊と力とを注がれました。この「イエス」は、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押さえつけられている人々をことごとく癒しながら、巡回されました。
また、
(同第16章18節)そして、そんなことを幾日間もつづけていた。パウロは困り果て、その霊に向かい「イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け」と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った。
また、
(マルコ伝第16章17節)信じる者には、このような徴(しるし)が伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、とある。

(4) 祈りの応験
(ヨハネ伝第14章13節)私の名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。(14節)何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
(同第16章23節)
その日には、あなたがたがわたしに問う事は、何も無いであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、私の名によって下さるであろう。(24節)今までは、あなたがたはわたしの名によって求めた事は無かった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。


(5) イエスの名によって万事を為す事
(コロサイ書第3章16節)キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互いに教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。(17節)そして、あなたのすることはすべて、言葉によると業によるとを問わず、一切主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。
(歴代志略上第16章8節)主に感謝し、その御名を呼び、そのみわざをもろもろの民の中に知らせよ。
(6) 聖名により生命を得る事
(ヨハネ伝第20章31節)しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。
(同第1章12節)しかし、彼を受け入れた者、即ち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
(同第17章3節)永遠の命とは、唯一の、真の神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります。
(ヨハネ第1の書第5章11節)そのあかしとは、神が永遠の命を私たちに賜り、かつ、その命が御子のうちにあると言う事である。(12節)御子を持つ者は命を持ち、神の御子を持たない者は命を持っていない。
8 聖名のため
ダビデは、予言的に言った。
(詩篇第44編20節)われらがもしわれらの神の名を忘れ、ほかの神に手を伸べたことがあったならば、(21節)神はこれを見あらわされないでしょうか。神は心の秘密をも知っておられるからです。
(22節)ところがわれらはあなたのためにひねもす殺されて、ほふられる羊のようにみなされました。

また
(ロマ書第8章36節)「わたしたちは、あなたの為に終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
と引照している、彼らは、誰の為に、だれの名の為に終日殺されんとしていたのか。

(使徒行伝第15章26節)この二人は、われらの主イエス・キリストの名のために、その命を投げ出した人々であるが、
(25節)そこで、わたしたちは人々を選んで、
(イエス・キリストの名の為に生命を惜しまない)愛する「バルナバ及びパウロ」と共に、あなたがたのもとに派遣する事に、衆議一決した。

また、
(使徒行伝第4章7節)そして、そのまん中に使徒達を立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、何の権威、また、だれの名によって、この事をしたのか」(8節)その時、ペテロが聖霊に満たされて言った「民の役人たち、ならびに長老たちよ、(9節)わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、(10節)あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。

(使徒行伝第4章18節)そこで、二人を呼び入れて、イエスの名によって語る事も説く事も、いっさい相成らぬと言いわたした。(同第5章28節)言った、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、何と言う事だ。エルサレム中にあなたがたの教えを、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」。
(29節)これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。

(使徒行伝第9章21節)
これを聞いた人たちはみな非常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者達を苦しめた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司長たちのところへ引っ張って行くためではなかったか」。
(ペテロ前書第4章14節)キリストの名の為にそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。


使徒達は、イエスの御名の為に辱められるに相応しい者とせられた。
(使徒行伝第5章41節)使徒達は、御名の為に恥を加えられるに足る者とされた事を喜びながら、議会から出て来た。

(マタイ伝第10章22節)またあなたがたは、わたしの名のゆえに凡ての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
(使徒行伝第18章15節)
これは諸君の言葉や名称や律法に関する問題なのだから、諸君自ら始末するがよかろう。わたしはそんな事の裁判人になりたくない。

キリスト教に対する反対は、絶えず一つの名に就いての問題であった。ダビデが予言的に忘れてはならないと語った名とは、実にイエスと言う神の名であった。初代教会以降即ち第二世紀以降のキリスト教会は、悲しいかな、ただ、知的に走り、遂に神の名を忘れ、第3世紀に至っては、父、子、聖霊の名、その名が何であるかを知らず、「父、子、聖霊の名」と言うのが、あたかも神の御名であるかの如く、誤信するに至ったのである。然し、「父と子と聖霊」と言う言葉は、代名詞または称号であって、神の名ではない。神の暦史の関係を現す唯一の名ではない。

主の弟子達は、父と子と聖霊との名が、イエスであると知っていたが故に、初代教会はみな、イエスの名で洗礼を施したのである。主イエス・キリストも、イエスと言う名がただ単に処女マラヤから生れた人なる贖(あがない)主としてのみの「イエス」ではなく、イエス御自身が、父と子と聖霊として顕現された、唯一の真の神である事を示される為に、父と子と聖霊の名によってと言われたのであって、その名とは、複数でなく単数であり、いささかの間違いもないように、父と子と聖霊との名は一つである事を教えられたのである。その一つの名とは、『イエス』である。

聖書の暦史の中に顕現された、旧約時代の、「人類の父」、新約時代の、神の「子」として生れた、イエス・キリストの時代、イエスの昇天後の、現代は、「聖霊」の時代である。これら三時代の神の暦史は、唯一の神の御名であって、この聖名によって、バプテスマを施せと命じられたのである。唯一の真の神の御名は、「イエス」と言う名である事は間違ない歴然たる事実である。


(ヨハネ伝第14章13節)わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。(14節)何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
とあり、予言によると、(イザヤ書第9章6節)その名は、「霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。とある。
ちなみに、今広辞苑を引いてみると、『霊妙なる義士』の意味は、「尊く不思議なこと。人知でははかり知ることのできないほどすぐれている。」の意味である。

以上、イエスの聖名の権威を知る事が出来たのである。真理は聖書に従う事である。
 

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