世界伝道への道



与那国-1より
東京体験記
八重山イエス之御霊教会を辞任して沖縄に渡り、福音を伝えながら南米に渡る道を求めて色々と努力したが、沖縄では限界を感じて、沖縄を引き上げて、東京に行くことにした。那覇の泊港から鹿児島行きの定期航路に便乗して、鹿児島に着いた。鹿児島からは汽車にのり、途中大牟田駅で下車して、病床の祖父を見舞って神癒祈祷をして一切を主に委ねた。親戚に別れを告げて東京を目指したのである。

大牟田からは東京行きの急行に乗り継いで、車窓から見える風景を眺めながらいまだ経験した事のない、汽車の長旅を続けてやっと東京駅に到着した。
汽車を降りて、電車に乗りかえ、教団本部に無事到着したのである。旅装を解いてから教団の監督に挨拶、沖縄での宣教報告をすませた。監督からは南米に出発した後の連絡のため、東京に住所を移したほうが良いでしょうと言われた。

東京には約8ヶ月滞在した。その間各地の大聖会での御用をしたり、また、家庭集会などで福音を伝えた。
ある家庭集会でのことであるが、家庭集会所のご主人が、私の説教を聞きたいと言って、招かれたのである。最近、改信し、教団に入団された二人の牧師達も参加されたが、一人はカトリックから来られた方で、もう一人は、ホーリネス教団から来られた牧師であった。

家庭集会が終わった時、ある牧師が言われた。
西脇先生の説教を聞いていると恐くなると言われるのである。何故ですかと尋ねると、聖書の御言葉通りに必ずなると言い切るので、もしも言った通りにならなかったらどうするのかと心配ですと言うのである。
私は、先生達は自分も信じられない事を、信者たちに信じなさいと教えているんですか?聖書の言葉が信じられないのですか?と言ったのである。

東京滞在中に、南米渡航の手続きの方法がわかった。南米に行けとの神のご命令を実行する為には、当時は南米に渡る方法としては、農業移民の条件しかなったのである。ちなみに、かの使徒パウロは、我は福音の為には、何でもすると言った。彼は天幕造りをしながら、福音を伝えたのであった。
わたしも、伝道の道が開かれるまでは農業をやりながら、伝道しようと決心したのである。さっそくブラジル農業移民の手続きをとった。
ちょうど桜の時期で、目の病気がはやっていた。ブラジルは特に、「トラホーム」患者は入国を禁じていた。私は小学生時代に「トラホーム」になっていると言われて、目の手術を受けたことがあった。その原因は少年時代に、目を開けたまま何度も海に潜っていたためであった。目が充血してはれていたのであるが、目を診察した医師は今のはやり目だと言って、異常なしと診断書を書いてくれたのである。更に目の診断は、遠視の診断をして、遠視のめがねを造って下さったのである。
待望の永住移民
日本政府の貸付農業移民として許可され、南米渡航の運賃は貸し付けになった。横浜の移民収容所に入所して、一切の手続きを終わった。
いよいよブラジルへ出発である。1958年5月12日、横浜港のメリケン波止場の桟橋から、自衛隊の音楽隊の伴奏で、オランダ船10300トンに乗船、教団の監督他大勢の兄弟姉妹達の熱烈なる見送りを受けて、オランダ船籍の移民船チチャレンカ号は横浜のメリケン桟橋からゆっくり離れて、見送りの最後のテープを切って出港したのである。

荷物の積み込みの為に、途中、名古屋港に寄港した。荷役が終わり、シチャレンカ号は次の港、沖縄の那覇港にも寄港したのである。那覇港では、沖縄からブラジルへ移住する多くの移民を乗せて、大勢の見送り人たちに盛大な見送りを受けた。私も同僚の牧師達や兄弟姉妹達の見送りを受けて、日本の最後の港を出港して、次の目的地香港に向けて出港したのである。
(第12章聖霊の働き その6)
香港へ

このページの TOPへ