沖縄体験記
(一)

私が、聖書と出会ったのは、(1950年)昭和25年の夏、21歳の時でした。
沖縄本島の中部の町、読谷村の高志保に宿泊した時である。その日は取引先の家に宿を取った。
その夜は真昼の様にきれいな月夜だった。寝るのも惜しいくらいで、夜半の月を眺めながら、旅にはいつも携帯している、ハーモニカを取り出して、静かに吹いていた。

そのとき、隣の家の雨戸がそうーと開いて、こちらをじっと見ている人がいたので、ハーモニカの吹奏を止めてその夜はすぐに休んだ。
実は後で知ったことであるが、私が吹いていた曲は、賛美歌の535番の曲で、『今日も送りぬ、主につかえて』と言う曲であった。賛美歌を愛用している人なら、誰でも知っている曲だったのである。

私がこの曲に初めて出逢ったのは20歳の時で、隣の村を訪ねた時、訪ねた家の裏座を間借りしていた、旅の老夫婦が歌っていた曲であった。
「今日も送りぬ主につかえて」と、しずかな、とても美しい曲であった。
若い時は記憶も音感もよく、自分の好きな曲はすぐ覚えたものである。
この曲は好きな曲で、時々、ハーモニカで吹いていたのだった。

朝起きて、昨晩は安眠を害したと思い、隣の家にお詫びに行った。挨拶をすると、まじめな顔で、「あなたはクリスチャンですか?」と聞かれて、「クリスチャンとは、何ですか?」と尋ねると、「キリスト信者の事です」と聞いて、「キリストとは、何ですか?」と尋ねると、「救い主です」と聞いて、「そんなのがあるんですか?」と言った。
「あなたは聖書を持っていますか?」と聞かれて、「聖書とは何ですか?」と尋ねると、「あなたに、この聖書をあげます」と言って、文語訳の新約聖書を貰ったのである。

そのとき、一人の青年が尋ねて来た。
同信の親しい間柄のようであった。この青年を紹介してもらい、私も自己紹介をした。青年の名は、渡慶次道雄といった。話し合って見ると、同じ年齢で心情も似ていた。私達は固い握手を交わして、また会う事を約速して別れた。

私は、貰った新約聖書を初めて開いて見た。最初に、強く心に感じた言葉があった。その言葉は、

『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。(マタイ伝第7章7節〜8節)』

と書いてある。
本当に、単純明快である。
私の人生経験では、人は求めても、与えられず、捜しても、見出せない事が多かった。
しかし、(8節)には、求める者は得、捜す者は見出し、門をたたく者はあけてもらえる、と書いてあるからである。

聖書はこのように、文字通り信じる事から始まるのか。
それから、聖書を何度も読み返した。信じて言えばその通りになる、と書いてある。
祈りも知らない時は、まず信じる事からはじまった。
沖縄市で2件
沖縄市の越来(ごえく)と言う町に、上原愛子と言う牧師がいた。
この方は、60歳から”いろは”を覚えて、牧師になったという方である。友人である渡慶次道雄君の叔母さんに当たる方で、以前に紹介されていたのである。
ある休みの日の午後、訪問すると、先生は何処か出かけるところであった。「こんにちは」と挨拶すると、「よいところにこられた。これから病人を見舞いに出掛けるところです。一緒に行きませんか?」と言われるので、先生のお供をして行った。

その家は、沖縄市の上地にあった。病人は結核の末期で、助かる見込みがないと、病院から帰された人であった。
行って見ると痩せ細って、寝たきりで起きる事も出来ない状態であった。私は耳元に近づいて、「イエス・キリストは、どんな病気でも治して下さる神様です。あなたは、イエス・キリストを信じますか」と言うと、静かにうなずいた。
わたしは、「あなたの病気は治った。今日から食べたいものは、何でも食べて、元気になりなさい。私は一週間後にまた来ますから」と言って帰った。上原愛子先生もよかったよかった、と心から喜んで下さった。

そして一週間後に来てみたら、家には誰も居なかった。あたりを見まわすと、500メータ位離れた所で、上半身裸でむぎわら帽子をかぶって、畑を耕している人を見つけたので、そこまで歩いて行った。「こんにちは」と言うと、「こんにちは、あなたでしたか、この前あなたが、言われた様に、体が急に軽くなり、気分もとても良くなりましたよ。熱もなく、咳も出ない、お腹がすいて、1日に4回も5回も、ご飯を食べているんです、お陰さまですっかり元気になりました。本当に有難うございました。家に居ても退屈だから、運動のつもりで、少しずつ体を慣らして行く様にしています」。
話をしながら、家に戻ると、間もなく、奥さんも帰ってきて、ご主人が元気になった事を、大変感謝していました。

私はその頃、カデナ飛行場の建設時代に、重機のメカニックとして勤務していた。
通常5時には仕事を終えて、シャワーを浴び、着替えて家に帰るのが、決まりであるが、その日は、急に空が曇って来て、土砂降りの大雨になったので、みんなが足止めされて、家に帰れないで困っていた。

私は同じ下宿の後輩に「早く着替えて帰る準備をしなさい。この雨を止めさせるから。」と言った。まさかこの雨が止むとは、誰も考えなかった。
私は、「イエス・キリストの御名によって、この雨止むべし」と言った。
すると、急に土砂降りの雨が止んできたのである。
誰もこの雨が急に止んだわけは知らなかったが、みな一勢にわが家へと駆けだし、私も後輩と一緒に、下宿へ帰ったのである。
北谷村謝苅(じゃーがる)の教会
渡慶次君は、北谷謝苅に教会をもっていた。これは、アメリカ兵やシベリヤンの人達が、建築の廃材を持ち寄って、休日を利用して、奉仕で建ててくれた教会であると言っていた。
私は、時間がゆるす限り、渡慶次君と行動をともにして、学校の子供達に賛美歌を教えたり、聖書の物語を教えたりしていた。

また、学校の校長の理解と協力を得て、小、中、高校でも教え、または、公民館や、部落の集会所などで、街の青年達に教化活動をしていたのである。その他、病院、結核寮養所、養老院、孤児院、救護院、ハンセン病の愛楽園等と、沖縄本島を北から南に慰問活動をして、戦後の傷める病人達を励まして歩いたのである。
賀川豊彦牧師の伝道活動
丁度その頃、賀川豊彦牧師が、沖縄伝道に来られ、沖縄各地で、伝道講演を行っていた。
渡慶次道雄氏は、自分は第二の賀川になるんだと言って、勉学の為に、東京へ行き、私は、彼の後を引き継いで、各方面の集会や、その他の訪問に余念がなかった。

その年のクリスマスには、1200人の子供達が集まり、クリスマスを盛大にお祝いしたのである。

翌年、東京に行った渡慶次君から手紙が来た。東大の総長と文通をしていたようで、挨拶に尋ねて行ったら、「何しに来たのか、沖縄に帰って、伝道しなさい」と言われたが、君はどう思うか、私の意見を聞いてきたのである。
私は、”福音の真理は伝道の中にある。実践して学ぶべきである”、と返事した。

彼は、奄美大島の渡牧師から紹介された、村井牧師を尋ねる様に言われていた。それで、沖縄に帰る前に尋ねて行った所、村井先生の東京イエス之御霊教会では、熱心に沖縄の為に祈っていたので、すっかり感動したそうです。

この教会の教義では、人の救いは、「水と霊」(ヨハネ伝第3章5節)であり、聖書通り実行しなければならないと言う。
主イエスは、「聖霊を受けよ。」(ヨハネ伝第20章22節)と命じられた。
あなたも聖霊を受けなさいと、神学生達に勧められて、聖霊を受けることになったのである。

聖霊を受けるためには、ハレルヤ ハレルヤと神を賛美して、聖霊が臨むまで待望するのであるが、聖霊を受けた徴(しるし)は、異言を語ることである。
聖霊が降り、異言が出てくるまで、祈りつづけること。

やっと聖霊がくだった。
今度は洗礼式。洗礼式も聖書通りに行わなければならない。
渡慶次君は、自分は二回も洗礼を受けたから、必要ないと言って拒んだ。
一回目は、”滴礼”の洗礼式、二回目は、三位一体とは?”三位一体の浸礼”、の二回である。
聖書は「『イエス・キリストの御名』によって行わなければならない」とあり、『イエス・キリストの御名』によって、”浸礼”の洗礼式でなければならない。
そして、聖書通りの洗礼を受けたのである。
渡慶次牧師、帰沖

渡慶次道雄氏は牧師となる為に、日本聖書大学院で入学根本教義を学び、按手礼を受けて牧師となり、沖縄へと帰ってきた。
帰って来たのが、その年の12月21日だった。教会では子供達が集って来て、クリスマスの順備をしていた。
渡慶次牧師は、上京する時と、沖縄に帰って来た時では、まるっきり変っていた。
渡慶次牧師は、帰沖の挨拶の中で、「真の救いは、「水と霊」である。先ず、聖霊を受ける事。洗礼は、「イエス・キリスト」の御名によって、バプテスマ(洗礼)を行なわなければならない」と挨拶した。

渡慶次牧師は沖縄に帰ってきた早々、集っていた子供たちに「聖霊を受けよ」と聖霊待望会を行った。
「みんな、声を出して、ハレルヤ ハレルヤと、ハレルヤをつづけましょう。」と言って、その通り続けると、聖霊が臨み、舌がもつれて、異言を語らされた。
私も子供達と一緒にお祈りをした。
その時、聖霊が降り、イエス様が上から、上半身をのぞかせて、慈愛に満ちた眼差しで、じっと、私を見つめておられた。

私は主の憐れみを感じて、わっと泣かされて、止められなかった。意識ははっきりしているが、どうしても、自分では止められなかったのである。
一時間半位、イエス様は、慈愛に満ちたまなざしで、私を見つめておられたのである。声がすっかりかれるまで泣かされた事を、今も鮮明に覚えている。

その夜は興奮して、一睡も出来なかった。
朝になって、早速安谷屋の集会所に子供達を集めて、聖霊を受けさせた。皆な、聖霊を受けて異言を語った。
その後、子ども達は、変わっていたのである。以前は勉強を教えても、出来なかったが、しかし、聖霊を受けると、一人で出来るようになり、成績が上がって、みな喜んでいたのである。
以後各地を廻り、聖霊を受けさせて歩いたのである。

それから、那覇に行って、屋比久さん家族に聖霊待望会をして、全家族に聖霊を受けさせた。
ある日、渡慶次牧師は、私にこれからどうするのか、と尋ねた。その夜は、遅くまで色々と語り合って休んだ。その夜、主は、私の寝床に現れて、じっと、私を見つめて居られたので、私は「ハレルヤ」と、飛び起きて、ひれ伏して祈っていると、寝ていた渡慶次牧師が起きて来て、私の上に手を置いて、「汝は祝福されたり、我汝の為に、高きやぐらをおけり」と言って、また寝たのである。
主の命を受けて
朝になって、昨晩の事を聞いてみた所、自分は何も憶えていないと言う。「本当にそうだったのか」と言って、彼も不思議がっていたのである。

朝起きて、慶良間列島を眺めていると、左の斜め上に人の手が見えるので、目の錯覚かと思い、注意して見ていると、段々大きくなっていくので、恐くなって会堂に飛び込んで、「いま天に現れている手は何ですか?」と主に尋ねると、「それは私の救いの手だ、その手の差し伸べられている所に行け。そこは八重山である」と言われた。
私は、「出来ません」と断ると、主は私に言われた。「汝、為したるにあらず、キリスト汝の中に在りて為し給へり。
行けすべての必要と、助けはその道に備えてある」と言われた。
これ以上は、主の言葉に背けず、主に従うしかなかった。

その命令があってから、八重山に行く船をさがしたら、糸満から10トン程の船が出ることがわかった。最後に、糸満の教会で頼まれた日曜日の説教をして、八重山行きの船で糸満を出航したのである。

乗客は、デッキの上にテントを張って寝ていた。その日は海が荒れていたので、船がひどくゆれて、波が何度も船の中に打ち込んでいた。後で聞いた話であるが、其の時、光り輝いた人たちが、寝ている私を取り囲んでいた、ということである。

そして、2日後、八重山に着いた。
(第12章聖霊の働きその1)
八重山-1へ

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